四国攻め
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四国攻め(しこくぜめ)は、安土桃山時代の1585年(天正13年)に行われた羽柴秀吉と長宗我部元親との戦争である。資料によっては、四国征伐、四国の役、四国平定などの呼称も用いられる。その前段階である本能寺の変によって中断された1581年(天正9年)から1582年(天正10年)にかけての織田信長による四国進出の過程についても本項で説明する。
- ^ 『図説 高知県の歴史』P137及び『信長の天下布武への道』P249より。
- ^ なお、2013年に発見された『石谷家文書』(林原美術館所蔵)の中に天正6年(1578年)12月16日付で石谷頼辰(元親夫人の義兄、当時は明智光秀配下)に充てた元親の書状が発見され、その文中より弥三郎が信長から一字与えられた事と合わせて、荒木村重討伐のために信長が摂津に滞在していることが記されており、従来の天正3年説は土佐統一直後に信長の下に使者を派遣したとする軍記物の記述に引きずられた見方に過ぎず、実際に弥三郎に「信」の一字が与えられたのは有岡城の戦いがあった天正6年(1578年)であったとする新説も出されている。なお、この説は長宗我部氏と織田政権の交渉の端緒を弥三郎(信親)の元服問題に求める通説を否定する考えであり、この問題以前から長宗我部氏が織田政権と交渉を持っていた可能性を否定する説ではないことに注意を要する。前述の元親の書状には阿波攻略に関する記述もあり、元親が阿波へ進出する天正4年(1576年)頃には信長と交渉を持ち始めていた可能性が高い(「長宗我部元親の四国侵攻と外交関係」P9-10)
- ^ 秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面-土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって-」(初出:『土佐史談』215号、2000年)/所収:平井上総 編『シリーズ・織豊大名の研究 第一巻 長宗我部元親』(戎光祥出版、2014年) ISBN 978-4-86403-125-7))
- ^ 本段落の藤田の主張は『謎とき本能寺の変』P50、谷口の主張は『検証本能寺の変』P216-218。なお、藤田はその後の論文(小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』(和泉書院、2006年)所収「織田信長の東瀬戸内支配」)において、縁組時期を天正7年11月まで遡らせている。
- ^ この朱印状を、事実上の信長から元親への断交宣言とする見解もある(『西国の戦国合戦』P234)
- ^ 信長側は、天正3年(1575年)の遣使の時点で長宗我部氏が織田氏に臣従したとみなしていた可能性もある(『信長の天下布武への道』P249)。
- ^ 『信長の天下布武への道』P250
- ^ 「長宗我部元親の四国侵攻と外交関係」P19
- ^ 『西国の戦国合戦』P234
- ^ 「長宗我部元親の四国侵攻と外交関係」P18
- ^ 『謎とき本能寺の変』P51
- ^ 「長宗我部元親の四国侵攻と外交関係」P19-20
- ^ 十河存保(三好義堅)の行動の背景には天正8年4月に織田・長宗我部陣営に接近した篠原右京進や一宮成相の反乱で勝瑞城を追われたことに対抗するために秀吉に接近したものであった(中平(橋詰、2019年)、P45-46.)。
- ^ 中平景介「天正前期の阿波・讃岐と織田・長宗我部関係」『戦国・近世初期 西と東の地域社会』橋詰茂 編、岩田書院、2019年6月。ISBN 978-4-86602-074-7 P39-65.
- ^ 5月7日付の信長から信孝に宛てた「今度四国に至って差し下すに就きての条々」では、攻略後の四国の国割について、讃岐は信孝、阿波は三好康長に与え、他の国は信長が淡路まで行った時に決めるとしている。また侵攻に当たっては信孝を康長の養子とし、三好氏として四国を統治させようとしていた(『信長の天下布武への道』P250-251)。
- ^ 『信長の天下布武への道』P251
- ^ 続群書類従巻第五百九十二 合戦部二十二 細州忠興軍功記
- ^ 『小牧・長久手の戦いの構造』P261より。
- ^ 伊予侵攻に力を注いだことが、長宗我部氏の淡路・畿内方面への攻撃を難しくしたという見方もある(『戦国の地域国家』P102-103)。
- ^ 藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』(東京大学出版会、1985年)
- ^ 「豊臣期国分に関する一考察 -四国国分を中心に-」
- ^ 「長宗我部元親の四国侵攻と外交関係」P21-23
- ^ a b 今谷『戦国の世』p.168
- ^ 以上、同盟の利点に関する内容は、『小牧・長久手の戦いの構造』P268-277 の記述にもとづく。
- ^ a b 『愛媛県の歴史』P153
- ^ 本項の参考文献中、『秀吉の天下統一戦争』『戦国の地域国家』『高知県史』『徳島県史』『香川県史 中世』『香川県史 近世1』『図説 高知県の歴史』『高知県の歴史』『戦国武将・合戦事典』の各書が統一完成説を前提に記述している。
- ^ 『小牧・長久手の戦いの構造』P262-266
- ^ 『西国の戦国合戦』P236-240
- ^ 『愛媛県の歴史』P153-154。
- ^ 『西国の戦国合戦』P239。
- ^ 『図説 高知県の歴史』P133
- ^ 『秀吉の天下統一戦争』P177
- ^ 『高知県の歴史』P155
- ^ 「長宗我部元親の四国侵攻と外交関係」P24-27
- ^ 両軍の兵力は『秀吉の天下統一戦争』P178
- ^ a b 『戦国の地域国家』P103
- ^ 『図説 高知県の歴史』P134
- ^ 『予陽河野家譜』によると、寄手の兵300人が丘の上から城に向けて一斉射撃を行い、城内が混乱したのに乗じて総攻撃をかけ、このため元宅は城に火を放って自害したとされる。一方『赤木文書』によると、小早川配下の赤木蔵人丞が元宅を討ち取ったとする。また吉川元長書状によると、この時高尾城で戦死した城兵は600余人だった(『愛媛県史 中世』P680)。
- ^ 桑名洋一「伊予における天正の陣についての考察―河野氏家臣団の動きを中心に―」(『四国中世史研究』7号、2003年)
- ^ 桑名洋一「天正期伊予における「境目」領主についての一考察」(『四国中世史研究』8号、2005年)
- ^ これ以後の中予の戦況については正確な史料が少ないため(『愛媛県史 中世』P681)、概況のみ示す。
- ^ 『徳島県史』P257。『兵庫県史』P742では大船600艘、小船300艘。
- ^ 『秀吉の天下統一戦争』P180
- ^ 『高知県史』P941-2
- ^ 『図説 高知県の歴史』P134における現代語訳。
- ^ 『秀吉の天下統一戦争』P181
- ^ 『秀吉の天下統一戦争』P183
- ^ 『愛媛県の歴史』P153。『西国の戦国合戦』P241によると、人質は元親の実子2人が務めた。
- ^ 藤田達生『日本近世国家成立史の研究』(校倉書房、2001年)「第一部 豊臣政権の統一戦」
- ^ 西尾和美「河野通直の死と豊臣政権」『戦国期の権力と婚姻』清文堂出版、2005年、P260-296.(原論文2002年)
- ^ 光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』(日本放送出版協会、2009年)
四国征伐
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しかし平安も束の間、信長死後に勢力を拡大した羽柴秀吉が四国侵攻の意志を表明。まもなく長宗我部家と羽柴家の交渉が決裂。6月、秀吉の四国征伐が開始されることとなる。羽柴秀長を総大将に、毛利氏、宇喜多氏も参戦し、総勢11万の大軍で四国へ侵攻。対する四国勢は4万、元親は阿波白地城に本陣を構え四国各地の海岸線の防備を固めて迎え撃つこととなった。讃岐では国吉甚左衛門に西長尾城を守らせ、西讃の陣代として入交蔵人を新居城に置き、長宗我部親吉を植田城に置いて当国の諸将を統領した。しかし多勢に無勢、次々に諸城が落ちていく中、元親は谷忠澄の言を入れ羽柴家の軍門に降った。讃岐には仙石秀久が入り、聖通寺に拠点を置いた。このときの仕置によって、香川家は取り潰しとなり、ここに200余年続いた讃岐香川氏は滅亡することとなった。 その後、数名の家臣と共に土佐へ逃れ、元親から幡多郡山田郷一帯に所領を受けて居住した。最期はそのまま土佐で死去した説、戸次川合戦で戦死した説、肥後の地で暮らしそこで死去した説など諸説あり、その最期は不明である。讃岐弥谷寺に香川氏累代の墓があるが、そこに信景は眠っていない。なお、上記生没年は香川氏の末と伝わる家の系図から引用したものであるが、生没年不詳説もある。
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