商業脚本家の時代
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1952年(昭和27年)7月3日に公開された『風の噂のリル』(監督島耕二、製作・配給新東宝)は、まったくの商業作品、劇映画であったが、須藤勝弥とともに共同脚本を執筆しており、翌1953年(昭和28年)6月28日に公開されたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『アナタハン』では、スタンバーグと共同脚本を執筆している。同作を製作した滝村和男が製作した『人生読本 花嫁の性典』(監督仲木繁夫)の脚本を若井基成と共同で、『わたしの凡てを』(監督市川崑)の脚本を梅田晴夫・市川崑と共同でそれぞれ執筆し、東宝が配給して、それぞれ同年7月14日、1954年(昭和29年)5月12日に公開されている。『アナタハン』の監督補佐であったシュウ・タグチは、『私はシベリヤの捕虜だった』(監督阿部豊・志村敏夫、製作シュウタグチプロ、配給東宝、1952年4月3日公開)の製作者でもあったが、彼が監督した『台風の眼』では、同じく監督助手であった岩下正美と共同で脚本を執筆、1955年(昭和30年)8月21日に東宝が配給して公開されている。 その後も日活、東映の作品に脚本を提供していたが、1957年(昭和32年)5月1日に新東宝が配給して公開された『日本刀物語』では、若井基成・安藤巌と共同で脚本を執筆し、同じく共同で監督し、8年ぶりで監督業に復帰した。新東宝の初代社長佐生正三郎が代表を務める映画製作会社日米映画が日本テレビ放送網と提携して製作、テレビ放映の数日後に劇場公開する「テレビ映画」のシリーズを開始、浅野は『麻薬街の殺人』、『殺人と拳銃』、『野獣群』の3作を同年11月から翌1958年(昭和33年)4月にかけて監督している。1959年(昭和34年)11月12日に公開された『雪崩の中の花嫁』を監督 して以降は、日活・新東宝の商業作品に脚本を提供するかたわら、『大いなる歩み』(1960年発表)、『人間の復活』(1963年発表)といったドキュメンタリー映画の製作・演出に復帰した。 1961年(昭和36年)8月31日、新東宝が倒産、関西支社を中心に設立した新東宝興業(現在の新東宝映画)がピンク映画(成人映画)の製作・配給を開始、浅野は1964年(昭和39年)に『カメラは見た 痴漢』を製作・監督、同作は同年7月15日に公開されている。そのいっぽうで、同年にはドキュメンタリー映画『北海に生きる』(製作春秋映画)を監督、第19回毎日映画コンクールで企画賞を受賞している。ピンク映画については、翌1965年(昭和40年)3月に公開された『濡れた牝馬』(製作国映)、同年4月公開の『売春』(製作東京放映)、同年8月公開の『女心の唄』(製作東京放映)、同年11月公開の『十八人の脱走娘』(製作インテリア)を監督して以降は関わっていない。
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