わ‐どけい【和時‐計】
和時計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/21 14:05 UTC 版)
和時計(わどけい)とは、日本の江戸時代から明治初期にかけて製作・使用された時計のこと。不定時法を用いるための機構を持つ世界でも珍しい時計である[1]。昔時計、日本時計、大名時計とも呼称する[2][3]。明治6年(1873年)を以って日本は定時法へ移行したことにより、その実用的使命を終えた[4]。
- ^ 山本p.235
- ^ 澤田p.13
- ^ a b 澤田p.18
- ^ 澤田p.14
- ^ 村上p.69
- ^ 岡田和夫「和時計刻んだ 江戸の日々◇独特の時刻制に対応 動く速さ変える仕組み解明◇」『日本経済新聞』朝刊2017年10月24日(文化面)
- ^ a b 澤田p.19
- ^ 山本p.234
- ^ 澤田p.20
- ^ 澤田pp.28-29
- ^ 澤田p.20-23
- ^ 澤田p.32
- ^ 山本p.237
- ^ a b 近藤勝之「江戸の和時計 科学の結晶◇極めた技術 複雑なからくりにほれ込み研究40年◇」『日本経済新聞』朝刊2018年8月24日(文化面)2018年9月19日閲覧。
- ^ 山本p.240
- ^ 山本p.241
- ^ 山本p.238
- ^ 茨城県地域史研究会p.80
- ^ 山本p.248
- ^ 若き「独立時計師」のクレイジーすぎる挑戦 | 若きプロフェッショナル - 東洋経済オンライン
和時計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 20:30 UTC 版)
和時計は高さが2mある大型のもので、朝と夕に太鼓や鐘を自動的に鳴らして町の人に時を知らせるとともに、飯塚家の門扉を自動で開閉させたと言われる。元は飯塚家の敷地内にあった「時計堂」に納められていたが、時計堂は現存せず、時計の部品は五角堂の梁上から見つかった。時計堂は伊賀七が60歳となった文政5年(1822年)に完成したので、還暦記念に造ったものと思われる。この和時計ができた頃、日本の各地で和時計作りが盛んであったが、伊賀七作のように大きなものはなく、町の人に自動で時刻を知らせるような装置は同時期にほかに存在しなかった。時計にはお経や神への祈願文がびっしりと書かれた面があり、伊賀七の信心深さが窺える。 伊賀七没後は管理がおろそかになり、時計の部品は五角堂に収納され、時計堂は解体されてしまったが、高層気象台の田村竹男が復元した。さらに2012年(平成24年)に伊賀七生誕250周年を記念した展示のために解体・再整備された。時計の文字盤には1日に1回転する「百刻文字盤」と季節ごとに交換する「節板式文字盤」の2つがあり、100か月まで表示できる装置も実装していた。時計とカレンダーを兼ねた装置と言える。復元のきっかけになったのは、1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会に合わせて谷田部町が開催した「幕末の科学展」で展示する構想が持ち上がったことである。現在は谷田部郷土資料館と水戸市にある茨城県立歴史館に復元模型が展示されている。 部品等は残っていないが、懐中時計も作ったという。「懐中」とは言え、実際には目覚まし時計ほどの大きさがあったようで、木製ではなく鉄製であった。
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