否定的な見解
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「東京電力の原子力発電」の記事における「否定的な見解」の解説
共同通信記者の西山明は請負業者側にも取材し1978年に『技術と人間』で記事を発表。当時の状況下で下記の問題点を指摘した。なお西山によれば同時期、NHKも『被曝管理』という特集番組を制作し問題提起をしているという。 1977年3月5日に発生した墜落災害に関して富岡労基署は転落防止措置が不十分だったとして転落した者が所属していた下請会社を労働安全衛生法違反の疑いで書類送検したが、送検は6月のことで労基署は「下請けと元請の関係が入り組み責任の所在がつかめず捜査に時間がかかった」とし、元請の日電工業、IHI、東芝、東京電力の責任は問わなかった。なお作業員全員が「手すりが無かったこと」「救出に時間を要したこと」を認めている。なお昭和41年から第一原発の建設工事が始まり、これまで車の運搬中の労災事故で11人死亡しているが、補修現場での労働災害事故死は、初めてで、同署が書類送検したのも初めてだった。なお西山が取材したところ、保修作業で現場に足場を組む際「これだけの足場にいくらかかるからと元請に請求しても応じてくれない。だから下請も簡単な足場で作業をしてしまう」場合があり、墜落災害の遠因となっているとしている。 西山の取材した下請け会社の親方Aによると、労基署の現場視察は3ヶ月に1回程度だが、事前に情報が漏れてくるのが通例で、その際は事前に不備な点を直すように元請から指導が入る。当日自分たちの現場に巡回する時間は大体分かるため、その際には元請より作業を中止し休憩に入るように指導されるという。 放射線管理区域内の「汚染区域」(C区域)「監視区域」(B区域)の補修現場に監察官の臨検や定期的な監督があるか西山が尋ねたところ、親方Aは、「昭和46年以来、そんな所1度だって無かったな。あれはば上の態度が普段と違うからわかるはずだが」と答えている。親方Aは、「実際に働いてみないと中の息苦しさは分からない」例として安全上必要な装備について「足袋をはいて外でのびのびやっていたトビ職には長ぐつもピタっとせず足元が不安定で動きは鈍くなる」と述べた。 安衛法22条では事業者に放射性障害の対策措置と25条で環境改善義務を明記しているが、労基署のチェック体制は「数字の読み取り」と「東電への信用」で、実況検分無しのデスクワークであると西山は結論付けた。西山は労基署の意見として、「各事業者が定期的に協議会を開いて、安全衛生管理に力を入れており、他の分野に較べれば多くの時間を割いて教育していること」、「管理については、1年1回、東電や元請から作業員の被ばく線量の記録を提出させ、点検していること」「放射線障害防止法に基づいて年間5レムにおさまっていること」「わずか三人の監督官じゃどうしようもない。東電の管理システムを信用している。だからといって手抜きはしていない」紹介しているが、西山は「建前をつくろったザル法でしかない」と結論付けた。ただし、1972年3月6日付基発第105号の労働省労働基準局長通達「企業における自主的安全衛生管理活動促進のための監督指導について」の冒頭において、「安全衛生対策の基本は、技術の進歩、生産態様の変化などに対応して、各企業において自主的な安全衛生管理活動が推進されることにある」と述べており、1972年6月9日の英国で提出されたローベンス報告の考え方を基本としている。つまり、「法規による強制よりは、事業者による自主的活動に重点を置くことが適切である」(この考え方の理由として、実際に発生している労働災害を見ても、法規違反が原因であるものは少ないという。したがって「労働災害を防止するためには、法規に頼ることよりも、労働者の参加も得て事業者が自主的に安全衛生活動を進めることが効果がある」ということである。例としては、「5S活動」)とのことになる。 なお、西山明の「福島原発の下請け親方の被曝証言--私らは原発のイワシだ」記事p93において、作業員が「アラームメーターがしょっちゅう鳴っていた。二十-三十分で交代する仕事だったが、自分は年をくっていたから若い者には負けられないと、メーターをわざと壊して働く時間を長くした」と自身の行為を述べた記述がある。(労衛法第4条において、労働者の事業者等の労働災害防止協力義務があるにもかかわらずである事業者が定めた労働災害防止の措置を労働者自身が協力していなかった。事業者のみ労働災害防止の措置を行うだけでなく、労働者も自発的に参加しなければ、労働災害を防止することは不可能であり、ローベンス報告の指摘は、的を射ている。 1977年6月、福島第一原発一号炉に立ち入り調査した福島県生活環境部職員によると、「炉内給水ノズルのひび割れ保修の現場にははしごで降りた。故障箇所周辺は鉛で防護され、防護マスクをつけた作業員2人が働いていた。私達の額には熱くてダラダラ汗が出て、空気もよくなかった。またパイプを取り替える場所は狭く、作業進展が遅くみえた。被ばく線量を避けるため定期点検に時間がかかるのが理解できた。」とし、定検のスピードアップのため以降のプラントでは格納容器の拡大を図る旨の報告を受けたことも述べられている。その後、福島第二原子力発電所2号機よりMarkII改良標準型が採用された。 また2011年3月11日の事故以降、福島第一原子力発電所では上記の厳密な線量管理、汚染源の遮蔽策は全て水泡に帰し、構内全域が放射線管理区域と同等の扱いとなる「管理対象区域」とされ、周囲20kmは強制的に立ち入り禁止とされた。その後除染を進め2012年4月末に、同所構内の一部の建物について非管理区域とした。 また、上記の他にも事故前から被曝などのトラブル隠ぺいなどが、批判的なジャーナリストなどにより指摘されている(「事故・トラブルへの対処」節内各記事を参照)。
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否定的な見解
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西山明の取材によると、岩本忠夫は県議時代に安全衛生関連の質疑を何回か行った際、知事の木村や答弁する県の幹部はすべて回答をはぐらかしたとし、「歯がゆくて仕方が無かった」「具体的な証言をもとに質問するとニュースソースが明らかになり、処分される危険もあり配慮せざるを得なかった」「県は東電に資料の公開を迫る姿勢は始めから放棄していた」とコメントしている。 西山明によると、科学技術庁原子力安全課は1978年当時、福島第一原子力発電所で放射線管理手帳を個人携帯しているのは三菱、日立、東芝、ビル代行とその下請のみで、それ以外は各社に応じて管理となっており、元請が持ったまま日々の被曝量を一方的に(場合によっては改ざんして)記録するような事例が横行していたという。 安衛法は発注者に離職後の健康診断等を義務付けしているが西山明は遵守しているケースはほとんどないとしている。また労基署は「県知事許可の無いモグリの業者は絶対にいない」と断言したが、西山の取材に答えたある業者は5分の1はモグリで1977年3から6月に3号機を保修した際には山谷、愛釜から200名程が集められており「彼らについては下請が履歴書を偽造して働かせていたようだ。身なりで大体分かった」と述べている。 森江信はCRDの交換作業について引き抜きの際圧力容器の底に溜まった比放射能の高い鉄サビ混じりの炉水が流れ出し作業者が頭から炉水を被るため、全面マスクとビニールスーツはそれらから身を守るためにも与えられているとしている。 福島第二原子力発電所設置許可取消訴訟の参考に供するため、同訴訟を提訴した大学一をはじめとする弁護団は、福島第一原子力発電所の下請け労働者を対象に独自に実態調査を実施したことがある。調査には29名が応じ、次のような証言を得た、としている。 ポケット線量計とアラームメーターの値がばらつくことがあり、どちらを信用していいか不安になることがある 着替えでアラームメーターを紛失した際に、ひもだけつけて監督の目を誤魔化して作業した。 時間が足りない時にはアラームメーターが鳴っても作業を続行し、元請の放射線管理者も見て見ぬふりをする 元請でも線量管理の目標(週300レム)を設定しているが、雇用問題が絡んでいる時はそれをオーバーしていても入場することもある 夏のある日、廃棄物建屋付近で作業した際、暑かったので裸で作業したが、現場監督は黙認した。見回りに来る東電の保安係は叱責した。 東電から検査が来るときは前もって通知されるので、危険な作業をしない 全面マスクは息苦しく、線量限度以下でも作業を続行した者の中には酸欠になった者がいるが、元請は東電の叱責を恐れて労災申請はしない風土が出来ており、入院した者にその間の日当を払い続けてもみ消した 調査結果を報じた朝日新聞の取材に対して鈴木範夫(当時東京電力原子力管理部長)は「パトロールを行い、遵守事項をチェックしている。従ってアラームメーターを無視して仕事したり、裸で作業したりすることは全く考えられないことだ」などと調査結果を全面的に否定した。 恩田勝亘が1986年に平井憲夫から取材したところによれば、線量計とアラームを身に付けて作業をしていても、規則通りに作業していたら全くはかどらないため、現場では実際は線量計を外した状態で汚染度の高い区域に入室したり、警報が鳴っても無視しての作業が常態化していたという。 資源エネルギー庁では発電所で働く者の被曝データを毎年公表していたが、1980年前後のデータでは初期に運転を開始したBWRで特に被曝量が高くなる傾向にあり、年間1.5〜2.5レム(当時の被曝上限は年間5レム)に多くの作業員が集中していた。これは一次冷却水がタービン建屋まで循環する構造を採用したBWRの欠点であった。 東京電力企画部副部長の宅間正夫(当時)は、平均被曝線量が増加した理由として、応力腐食割れに代表される初期不良のための修理、対策工事が増加したことを挙げている。 また石丸小四郎が代表を務める「双葉地方反対同盟」は1999年には同団体の助力により40代のベテラン溶接工の病死について、計74.9mSvの被曝によるとして、労災申請が初めて行われた。また、石丸によれば、1998年度でも東京電力の正社員の被曝量は年間0.8mSvに対して、協力企業は2.6mSvと3倍の開きがあり、格差問題は依然として残っているという。
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