名声の確立
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1877年、セザールはモンテカルロのグランドホテルの支配人になると、1年で収益を倍にするなど敏腕を振るった。しかし、リビエラにコレラが蔓延し、客足はすっかり遠のいてしまった。このことが影響し、以降、セザールは偏執狂的と言って良いほど衛生面に厳しくなった。自身も多い時は1日に4回もスーツを着替えるほどだったという。 セザールは、まだトイレや風呂が各階に2つずつしか無かった時代に、ホテル界で初めて各客室にトイレとバスタブを完備した。また客室の分厚いカーテンを取り払って壁にペンキを塗ったり、ベッドは真鍮製の物に替えたりした。これは室内を衛生的に保つよう、簡単に洗ったり掃除ができるようにするためであった。 1880年、30歳の時、スイスのグランド・ナショナル・ホテルの支配人となり、経営全般を任せられた。セザールは、ラジオも映画もなかった時代に、宿泊客のために趣向を凝らした様々なイベントを考え出し、ホテルは盛況する。そしてこれ以降8年に渡り、冬期(12月中旬から 5月中旬)は避寒地として賑わうリビエラで、そして夏期は避暑地として賑わうスイスのルツェルンで働くことになる。 1884年、ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエをモンテカルロのグランドホテルの料理長に迎え、レストランにも力を入れるようになる。出資者と料理長、そして時のプリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード7世)というパトロンをも得たセザールは、その後、ホテルの経営者になることを目指すようになる。 1888年1月17日、グランドホテルのオーナーの姪でモンテカルロ育ちのマリー=ルイーズとカンヌで結婚した。当時セザールは37歳、マリー=ルイーズは20歳であった。妻の一族との社会的階級差を気に病んだセザールは、地位を欲して当時カンヌにあったオテル・ド・プロヴァンスを買収した。その後もドイツのバーデン=バーデンでホテル・ミネルヴァを買収した。 1889年にはロンドンでリチャード・ドイリー・カートに乞われてエスコフィエとともにサヴォイ・ホテルでも働くことになり、セザールはモンテカルロ、ドイツ、ロンドンと飛び回る日々が始まった。 1891年、イタリアに招聘されローマでもグランドホテル(現在のセントレジス・グランドホテル。このホテルは近年改装されたが当時のセザール自らによるデザインに沿った構造となっている)の設計に着手する。1894年に開業したこのホテルで、セザールはルームサービス用に調理場を2つ作ったうえ、当時はまだなかったエレベーターのためのスペースを確保するなど、将来を見据えた設計をした。[要出典]
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名声の確立
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「パテック・フィリップ」の記事における「名声の確立」の解説
1849年 - アメリカのティファニーに懐中時計供給を始めた。 1851年1月11日 - 社名を「Patek & Cie」から「Patek & Philippe Cie」に変更。 1851年 - ロンドン万国博覧会に出品、ヴィクトリア女王がリューズ巻上げ・時刻合わせ式の18金ペンダントウォッチを購入。 1854年 - 本社が現在地Quai General Guisanに移った。 1867年6月26日 - ローマ教皇ピウス9世が18金懐中クォーターリピーターを購入。裏蓋には教皇の紋章と両側に月桂樹が七宝で描かれている。 1877年5月1日 - 創業者パテック死去。 1877年 - ピョートル・チャイコフスキーがルイ15世スタイルの懐中クォーターリピーターを購入。 1878年 - ティファニーがアメリカ製工作機械を備えた自社のジュネーブの時計ムーブメント製造工場をパテックフィリップに売却(この影響で、この年代近辺では全く同じムーブメントでありながら、Tiffany製の物とPatek製の物が市場に流通している)。 1891年1月 - ジャン・フィリップが経営を息子のジョセフ・エミール・フィリップに譲る。 1894年1月5日 - ジャン・フィリップ死去。
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名声の確立
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1884年1月、ウジェーヌ・マネとその妻ベルト・モリゾの企画により、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でマネの回顧展が開かれた。116点の油彩のほか、版画、デッサン、水彩、パステル画など合計200点を集めた大規模なものであり、成功を収めた。ただ、マネの評価が高まりつつあったアメリカと比べ、フランスでの評価はまだまだ低かった。『笛を吹く少年』について、その平面的な彩色を嫌い、「これは扉に貼り付けられたダイヤのジャックだ」とけなした保守的な批評家もいた。回顧展後にオテル・ドゥルオで行われた競売は順調に行かず、ベルト・モリゾは、姉への手紙に「美術学校での展覧会が成功したあとで、競売の方は完全に失敗したのです。[中略]とにかく私はとてもがっかりしました。唯一の慰めは、マネの作品はみな心の美術愛好家や芸術家たちの手に渡ったということです。売立ては全部で11万フランの収益がありました。本当をいうと、私たちは最低でも20万フランと見積もっていたのです。」と書いている。 1889年のパリ万国博覧会を記念して開かれた「フランス美術100年展」に、マネの『オランピア』が展示された。この頃、お金に困ったマネの妻シュザンヌが『オランピア』をアメリカ人に売却しようとしていることを聞いたモネは、マネの代表作の海外流出を憂い、この作品を購入してルーヴル美術館に寄贈する計画を立てた。モネは、オーギュスト・ロダン宛ての手紙で、「これは、マネの業績に対するすばらしい賛辞ですし、同時にこの絵の持ち主であるマネ夫人の経済状態をさりげなく援助することにもなります」と書いている。元美術大臣アントナン・プルーストの反対に遭ったが、最終的に、モネは、『オランピア』を購入し、1890年11月、国のリュクサンブール美術館に展示させることに成功した。その時でも、ルーヴル美術館にはふさわしくないという保守的アカデミズムの抵抗はまだ強かった。1907年にジョルジュ・クレマンソーの働きかけにより、ようやくルーヴル美術館に移送された。 1894年、印象派の画家で収集家でもあったギュスターヴ・カイユボットが亡くなった時、マネや印象派の作品68点をリュクサンブール美術館に遺贈するとの遺言を残した。この当時も、美術界の保守派の抵抗は根強く、受入れには反対の声が強かった。結局、1896年2月、コレクションの中から40点が選ばれて、フランス政府が受け入れることになった。この中にマネの『バルコニー』も含まれている。 1905年、サロン・ドートンヌで、マネの油彩画25点、パステル画5点、水彩画1点の合計31点から成る回顧展が開かれた。『エミール・ゾラの肖像』などサロン出品作5点を含む充実した内容の展覧会であった。 1906年、近代美術の大収集家エティエンヌ・モロー・ネラトン(英語版)がルーヴル美術館に寄贈したコレクションの中に、マネの『草上の昼食』など5作品が含まれていた。 1932年、パリのオランジュリー美術館で生誕100年の記念展覧会が開かれた。この時、マネは国家レベルで最終的な承認を得たといえ、ポール・ヴァレリーは、展覧会カタログに「マネの勝利」と題する序文を寄せた。 1983年には、パリのグラン・パレ美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館で、没後100年の回顧展が行われた。それまでのマネ研究が集大成された展覧会であり、近代絵画の巨匠としてのマネの地位は決定的なものとなった。同じ年、ポンピドゥー・センターの国立近代美術館で「ボンジュール・ムッシュー・マネ」展が開かれ、マネの絵画に触発された19世紀以降の作品と現存画家の作品が展示され、『オランピア』をはじめとするマネ作品が後世に及ぼした影響を物語る内容となった。
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