名声の回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 03:06 UTC 版)
「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の記事における「名声の回復」の解説
1760年10月、国王ジョージ2世が死去した。サックヴィルは新王ジョージ3世に謁見して歓迎を受けたが、大ピットなどの閣僚が怒り、結局サックヴィルは以降の謁見を取りやめざるを得ず。1761年イギリス総選挙でイースト・グリンステッド選挙区(英語版)とハイス選挙区(英語版)の両方で当選、後者の代表として議員を務めることを選択した。そして、1761年12月に庶民院で七年戦争の継戦に関する演説を行って政界に復帰したが、ジョージ3世はサックヴィルに同情的でありながらサックヴィルへの処分を取り消せなかったため、サックヴィルはグレンヴィル内閣期には野党に回った。一方でほかの野党諸党派から距離を置き、第1次ロッキンガム侯爵内閣の成立(1765年7月)に際して第2代エグモント伯爵ジョン・パーシヴァル(英語版)から賛否を聞かれたときはあくまでも国王への支持に重点を置くとして、盟友のチャールズ・タウンゼンドを庶民院院内総務に推薦するに留まった。 同年10月10日に父が死去するとノウル・パーク(英語版)の地所を継承した。そして、12月1日にアイルランド副大蔵卿(英語版)に任命され、20日に枢密顧問官に復帰したが、ロッキンガム侯爵への支持を決めたわけではなく、印紙法廃止をめぐっては野党に回り、さらに1766年7月に大ピット(同年にチャタム伯爵に叙爵)が組閣すると、大ピットは即座にサックヴィルをアイルランド副大蔵卿から解任した。一方、グレンヴィル内閣期に敵対したジョージ・グレンヴィルとは1766年1月に和解した。以降1768年までチャタム伯爵内閣への攻撃を続けつつ、議会での演説では常に平静を保ち、野党急進派の動きには加わらなかった。 1768年イギリス総選挙ではハイス選挙区で落選したが、代わりにイースト・グリンステッド選挙区(英語版)で当選、以降1782年に叙爵されるまで同選挙区で再選を続けた。続くグラフトン公爵内閣期(1768年 – 1770年)では1769年よりジュニアス(英語版)という偽名を使用する作家による、政権を攻撃する文書が次々と出版され、その正体(英語版)について多くの説が唱えられたが、ジュニアスの正体をサックヴィルとする説もサー・ウィリアム・ドレイパー(英語版)により唱えられた(ただし、ブリタニカ百科事典第11版はこの説を誤りだとしている)。また、1769年12月16日にエリザベス・ジャーメイン(英語版)が死去すると、サックヴィルはエリザベスの夫初代準男爵サー・ジョン・ジャーメイン(英語版)の遺言状に基づきノーサンプトンシャーのドレイトン(英語版)地所を継承、1770年2月16日に私法案(英語版)による議会立法を経て姓をジャーメインに改めた。
※この「名声の回復」の解説は、「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の解説の一部です。
「名声の回復」を含む「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の記事については、「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の概要を参照ください。
- 名声の回復のページへのリンク