司空・太尉を歴任
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その後、中央に復帰すると、侍中・光禄大夫に任じられた。 365年4月、司空に昇進し、中書監を兼務した。 367年10月、前秦の晋公苻柳が蒲坂で、趙公苻双が上邽で、魏公苻廋が陝城で、燕公苻武が安定で、それぞれ君主苻堅に対する反乱を起こした。その際、苻廋は陝城を挙げての帰順を条件に前燕へ援軍を要請した。前燕の魏尹・范陽王慕容徳は前秦を討つ絶好の機会であるとして、朝廷へ出兵を要請した。多くの群臣がこの要請に同意し、慕容暐もこれに従おうとしたが、司徒慕容評は前秦の国力の高さと、慕容恪が死して以降国内がまだ纏まっていない事を挙げて反対し、軍事行動を起こさなかった。 苻謏は慕容評や慕容暐が何ら遠謀を持っていない事を知っており、救援軍が派遣されないのではと懸念していたので、前燕の重臣である慕容垂と皇甫真に手紙を送って「苻堅、王猛はいずれも人傑です。燕の征伐を久しく目論んでおりました。今、もしこの機会に乗じて赴かなければ、燕の君臣はまさに『甬東の悔』(呉王夫差が越に敗れると、越王勾践により甬東(舟山群島)に島流しを言い渡された。夫差はこれを拒絶し、かつて側近伍子胥の進言を用いずに越を滅ぼさなかった事を後悔しながら自殺した)を抱く事になりましょう」と訴えた。慕容垂はこの書を読むと、私的な場で皇甫真へ「我らを患わせる者は必ずや秦だ。主上(慕容暐)は春秋に富み(年齢が若くて)未だに政事に心を留めようとせず、太傅(慕容評)の度量や計略を鑑みても、苻堅や王猛に抗う事は出来ぬぞ」と語った。皇甫真は「その通りだ。これこそ繞朝(春秋時代秦の政治家)が言う『謀之不従可如何!(謀が聞き入れられなければ、為す術が無い!)』という事だろう」と答えるのみであった。 結局、反乱は王猛・鄧羌・張蚝・楊安・王鑒によって同年の内に鎮圧された。 同年12月、太尉・侍中に転任した。 369年11月、前秦へ使者として赴いていた大鴻臚梁琛と苟純が鄴に帰還した。梁琛は慕容評へ、前秦が前燕併呑の準備を進めており、近いうちにその軍勢が到来するので防備を固めるよう要請したが、慕容評は取り合わなかった。梁琛は慕容暐にも同様に訴えたが、彼もまた応じなかった。その為、梁琛は皇甫真へも相談を持ち掛けると、皇甫真は深くこれを憂慮し、慕容暐へ上疏して「苻堅と我らは互いに使者を往来させ、輔車の関係を保っておりますが、隣敵として等しく抗しあっており、国の勢いも同一です。利があればそちらを優先するのは明らかであり、慕善の心などありません。久要(旧約)を崇めるために信を守ち、和を存続させる事などありはしないのです。近頃は行人の往来を重ねており、またその軍は洛川まで出てきましたが、これは行軍路や要害の地、また国家の内情について細かく調査するためなのです。虚実をよく調べて奸計を練り、風塵(内乱)を聞いて国の隙を窺うは、侵攻する上での常道です。今、呉王(慕容垂)が外奔(亡命)しており、敵は彼を謀主となすでしょうから、伍員(伍子胥)の禍に備えなければありません(楚の伍子胥は災いを避けて呉へ亡命し、後に楚を滅ぼした)。洛陽・并州・壷関の諸城に命じ、増兵して守備を固め、有事に備えられますように」と訴えた。これを受け、慕容暐は慕容評を呼び出してこの件について尋ねたが、慕容評は急に国境の防備を固めるような事をすればむしろ前秦に疑念を抱かせる事になるとして、結局取り合うことは無かった。
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