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大鳴門灘右エ門 (3代)とは? わかりやすく解説

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大鳴門灘右エ門 (3代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 04:40 UTC 版)

大鳴門 灘右エ門(おおなると なだえもん、1887年10月5日 - 1942年7月12日[1])は、現在の滋賀県草津市出身で八角部屋雷部屋に所属した大相撲力士。本名は川合 文治郎。3代八角。最高位は西関脇。178センチメートル、103キログラム

来歴

尋常小学校を卒業後、実家の飲食店を手伝っていたが、巡業でやってきた東京相撲の関係者の目にとまり勧誘される。入門をめぐっては先代大鳴門の八角と、元横綱初代西ノ海井筒の間で争いが起こったが、結局八角に入門する。

1902年5月場所、「司天龍」の四股名で初土俵。1908年5月場所で十両に昇進すると、4勝1敗1分4休、5勝1敗2分1預1休と続けて2場所で入幕を果たす。

1909年6月場所新入幕、この場所で4勝4敗1分1休(1休は相手力士休場)の五分の星だったが、同じ西の方屋の幕内上位が不振だったため、翌1910年1月場所では前頭5枚目まで番付をあげる。同場所から師匠の四股名である大鳴門に改名、この場所で横綱大関には通用しなかったものの、1関脇1小結を倒すなど5勝4敗1分、翌6月場所で小結に昇進する。

小結に昇進した場所は怪我のため全休。その後もふるわず1913年1月場所で十両に陥落したが、一場所で再入幕。以後休場がちになりながらも徐々に番付をもどしていく。1917年5月場所、東前頭2枚目の地位で大錦2代西ノ海のニ横綱を破るなど5勝2敗1分2預。これは平幕力士が一場所でふたつの金星をあげたはじめての例だった。 栃木山にも彼の新入幕場所(1915年1月)で幕内初黒星をつけている。

1918年1月場所で、関脇に昇進するが、4勝6敗と負け越して一場所で小結に落ち、そこでも4勝4敗2休で平幕にさがる。以後三役にかえりざくことはなく、師匠の死後空き株になっていた名跡「八角」を二枚鑑札の形で継承、八角部屋を再興した直後の1921年5月場所限りで引退。

成績

幕内24場所72勝83敗70休15分預

改名:司天竜→大鳴門 [2]

出典

  1. ^ 大鳴門 灘右エ門”. 大相撲 記録の玉手箱. 2012年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年7月15日閲覧。
  2. ^ 水野尚文、京須利敏 編著 『大相撲力士名鑑 平成13年版』 共同通信社、2000年、ISBN 4-7641-0470-9、ISBN-13:978-4-7641-0470-9。



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