句作
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眉村は高校時代に俳句部に所属し、水原秋桜子主宰の「馬酔木」に投句するなどしていた。作家としてデビューした昭和40年代には、毎日新聞の記者をしていた赤尾兜子とパーティで知り合い、これをきっかけにして兜子の主宰誌「渦」の同人となっている。当時眉村は俳句の中にSF的な感覚を盛り込むことを試みていたが、逆に兜子から、小説の文章が俳句的で読者に伝わらないという指摘を受け、以後小説の書き方を変えたという。兜子の死後は多忙もあってしばらく句作から離れたが、上述の妻の死以降、ショート・ショートと平行してふたたび句作に取り組むようになり、「渦」にも復帰、2009年には最初の句集『霧を行く』を出版している。
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句作
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神田川祭の中をながれけり 竹馬やいろはにほへとちりぢりに さびしさは木をつむあそびつもる雪 あきかぜのふきぬけゆくや人の中 水中花咲かせしまひし淋しさよ 時計屋の時計春の夜どれがほんと あきくさをごつたにつかね供へけり 叱られて目をつぶる猫春隣 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり などの句が知られる。江戸情緒の残る下町の暮らしを、平明な言葉によって余情ふかく詠む句風で、芥川龍之介はその句風を「東京の生んだ<嘆かひ>の句」と評し、万太郎自身は自分の句を「家常生活に根ざした叙情的な即興詩」とみなしていた。 万太郎は終生、自身の俳句を余技として位置づけていたが、俳壇の中心的な位置からはずれながらもその俳句に対する世評は高く、歳時記への収録も非常に多い作家である。山本健吉は、「彼は俳句を余技と言っているが、それは彼の俳句が年季のはいった立派なものであるということと矛盾するものではない。ただ専門俳人との間に創作態度の違いが存在するのであって、彼にとっての俳句は全面的な人間表現の場所でもないし、絶体絶命の一筋の道ではないということだ。言わば彼の不断着の文学であり、チェホフの『手帖』やルナールの『日記』に類する役割を彼においては果たしているのだ」と評している。また小澤實は、万太郎は一段劣るものという意味で「余技」と言っていたのではなく、「余技」であることこそが俳句の本道であると考えていたのではないか、と書いている。 上掲の句のうち、「竹馬や」の句は特に代表的な句として知られているものである。安住敦によれば、この句は明治時代の広瀬武夫作の軍歌「今なるぞ節」の「いろはにほへとちりぢりに打ち破らむは今なるぞ」という歌詞の本歌取りで作られたものというが、現在では軍歌のほうは忘れられている。「あきくさを」の句は「友田恭助七回忌」の前書きがある追悼句で、万太郎の慶弔句の中でも代表的なもの。万太郎は挨拶句の名手であり、前述の山本健吉は虚子と双璧をなすと書いている。「湯豆腐や」の句は夫人を失ったのちの最晩年の句である。 句碑 桑名「獺に燈をぬすまれて明易き」 浅草神社「竹馬やいろはにほへとちりぢりに」 駒形どぜうの庭「みこしまつまのどぜう汁すすりけり」 慶應義塾大学構内「しぐるるや大講堂の赤煉瓦」
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