叙任権闘争で失われたもの
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:29 UTC 版)
「ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「叙任権闘争で失われたもの」の解説
ローマ皇帝はヴォルムス協約において、目に見える形ではほとんど何も損をしていない。中世西欧のローマ帝国はイタリア王国の統治を前提としてブルグント王国、さらにローマ教会から「ドイツ王国」と呼ばれた旧東フランク王国を主たる構成要素としているが、そのうち実質的な帝国本土である「ドイツ王国」内では、司教・修道院長の選挙に皇帝が臨席することが認められた。 ローマ皇帝の臨席による無形の圧力は、皇帝の望む形での決定に向かわせることが多かった。また、複数の候補者が出るなど、叙任をめぐって意見の対立が見られた場合は、ローマ皇帝の裁量で決定できるという取り決めもあった。つまり「ドイツ王国」内では事実上、叙任権を保留したとさえいえる。もちろん教会が有する土地や財産の受封といった世俗的な権利はローマ皇帝によってなされるので、この点でも皇帝は何ら失っていない。 しかし、それでもローマ皇帝は致命的なものを失った。それは神権的な皇帝権である。ザクセン朝、ザーリアー朝を通じて、さらに起源をたどればカール大帝以来、歴代のフランク王、ローマ皇帝はずっと普遍的なキリスト教帝国樹立という夢を追っていた。しかし、もはやそれを支える論拠は失われたのである。 こうした中、次のホーエンシュタウフェン朝の時代に入ってから初めて「神聖帝国」の名が使用される。1157年3月のミラノ討伐イタリア遠征のための諸侯に対する召集状においてフリードリヒ1世が初めて「神聖帝国」の語を用いている。神聖であることが自明の理で無くなったからこそ「神聖」を名乗る必要が出たのである。さらに「神聖ローマ帝国」の語が用いられるのは中世的な国家体制が崩壊した直後のローマ王ヴィルヘルム以降のことである。
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