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反逆とは? わかりやすく解説

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はん‐ぎゃく【反逆/×叛逆】

読み方:はんぎゃく

[名](スル)権威権力などにさからうこと。「—の徒」「社会に—する」


反逆

作者矢田津世子

収載図書日本プロレタリア文学23 婦人作家集 3
出版社新日本出版社
刊行年月1987.11


反乱

(反逆 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/24 16:14 UTC 版)

反乱叛乱(はんらん、英語: rebellion、insurgency、uprising)とは、国家等の支配者に対して被支配層が個人で、もしくは徒党を組み、暴力的・破壊的・示威的行動によって何らかの不満を表明し、その不満の原因解決を迫り、あるいは被支配層みずからの手で不満の原因を解決しようとする行為である。

また、歴史の中でこの行為の際に陣営のが必ず掲げられており、この旗が「反旗」と呼ばれたことや、その旗がになびいている様子から「反旗を翻す」という語が生まれたともされている[1]

概要

国家的規模でなくとも、軍隊の構成員や船の乗組員などが共謀して公然と上官等の権威に対抗する場合も反乱という。この場合の反乱には、英語では「mutiny」の語が充てられる。

なお、この語はあくまで反乱を「起こされる側」の表現であり、実際に「起こす側」が自ら反乱と言うことはなく[要出典]「決起」などと呼ぶ。

漢字圏の歴史上の叛乱には「~の(らん)」とのみ呼ばれるものもあるが、「乱」に反乱の意味はなく、この場合の「乱」は単に「世が乱れること」を意味している[2]

フィクションにおいては人間同士にとどまらず、人間以外の動物などの人間と同等の意思や知性等を持たない生物や人工知能などの無生物が、人間に対して牙をむくような場合も反乱として扱われる。

最古の反乱

人類がいつどこで反乱という行為を最初に起こしたのかについては分かっていないが、文明を築き、集団生活の中に「社会」を構成し始めた4大文明の時代から近代まで、常に反乱は発生してきた。

シュメール王朝を吸収して北部メソポタミア地方に興ったアッカド帝国第2の王、リムシュが生きた紀元前2300年代にはすでに、旧シュメール王朝派の都市国家ウルの王、カクを中心にした勢力がリムシュに対して反乱を起こし「シュメールと激しく戦った。8742人の兵士を殺し都市を破壊し、城壁を崩した」と記録が残されている。

この反乱の原因が、旧シュメール王朝派によるクーデター的なものだったのか、帝国による旧シュメール王朝派への何らかの迫害の結果なのかは判明していないが、より詳しく歴史をつづるようになったその後の人類による反乱の記録を見てゆくと、反乱が発生した国家の支配層には、常に公的な部分に何らかの問題があることが読みとれる。

反乱の背景

問題とは時に被支配層へのある種の弾圧であったり、貧困が原因の食糧不足であったり、非政治的で、比較的原始的なものである。こうした一時的あるいは慢性的な問題を、被支配層が選挙デモ、請願などの平和的主張によって訴えることができ、支配者がその訴えを受け止める国家ならば、反乱は発生しづらい。あるいは、支配者が有能であり、被支配層の生活を考慮して善政を行う場合も、反乱が起きる可能性は低いと言える。

逆に、被支配層から支配者への訴えを権利として認めない国家、訴えを弾圧する国家、あるいは平和的手段によって訴える事はできるが、支配者が常にそれを黙殺するような状態の国家、深刻すぎて平和的に訴える次元を過ぎたような問題のある国家では、反乱の可能性は高まる。

歴史的に、選挙・請願・デモなどの平和的主張が被支配層の「権利」として認められるのは、民主政が定着し始めた19世紀から20世紀を待たねばならず、それ以前の帝政・王政が主流の世界では、被支配層には支配者を批判したり、不満を表明する手段がなく、またその権利を自覚していなかったため、幸運が有能な支配者をもたらさない限り、被支配層は支配者に対する不満を蓄積し続け、結果として反乱を起こす可能性が非常に高い時代だったと言えるだろう。

「反乱」と類義・近似の言葉は、日本語にも英語にも数多くあるので「反乱とは何か」を考えるとき、その境界を見つけるのが多少難しい。英語では、反乱を大きく rebellion とし、民衆が非武装なら nonviolent resistance市民的不服従)、武装していれば uprising と呼ぶ。

反乱とリーダー

反乱にはときに、現状を正さねばならないという主張があり、行動力またはカリスマ性のあるリーダーが現れ、被支配層を統率して進行する場合がある。リーダーは反乱の象徴であり、中心であるため、リーダーが倒れると同時に、その反乱は失速し、終息に向かう場合がある。

19世紀後半から20世紀前半にかけ、アジア・アフリカ地域の民族主義が高まってゆく中で、欧米による植民地支配に対抗して起きた独立運動の盛り上がりの中には、インドのマハトマ・ガンディーなどのような歴史上特筆されるリーダーは少ないが、反乱によって圧制者の手から国家の独立を勝ち取らねばならない場合には、1人のリーダーよりも「民族の誇り」が、大衆全体をより強く動かしうる。

当事者の支配層から見れば、規模の大小や、そこにどのような大義があるかは関係なく、それまで下に見ていた者が上に向かって弓を引く行為はすべて反乱としか見えない。イギリス側がインドの独立運動を「インド大反乱」と呼び、インド側は「第一次インド独立戦争」と呼ぶのは非常に象徴的である。

主な反乱一覧

戦争一覧内戦一覧および独立戦争一覧も参照。

複数年にわたる反乱は、蜂起した年のみ挙げる。

出典

  1. ^ ことわざ「反旗を翻す」の意味と使い方:例文付き 2018年8月20日 - 2018年11月10日 スッキリ 世の中のギモンを解決するメディア
  2. ^ 広辞苑』第5版「乱」。「乱」に叛乱の意味がないことは、各種の漢和辞典でも確認できる。

関連項目


反逆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:37 UTC 版)

文欽」の記事における「反逆」の解説

曹爽没落後、文欽宥めるため前将軍昇格させる措置が採られた。後に都督揚州諸軍事に昇格した諸葛誕に代わって、揚州刺史任命された。 文欽は、曹爽亡き後不安定な立場に、内心常に危惧の念を抱いていたが、諸葛誕とは互いに憎み合っていた為に謀叛相談をする事はなかった。 250年、呉に対して偽の降伏使者遣わしたが、朱異看破され失敗した『三国志』呉志朱桓伝附朱異伝」)。 253年、呉の諸葛恪指揮執る大軍侵攻してきた際には、前年東興での敗戦により、豫州転出した諸葛誕に代わって都督揚州諸軍事となっていた毌丘倹合肥新城張特と共に、これを迎撃した。数カ月の間、諸葛恪張特らが守る合肥新城力攻めにしたが、攻め落とす事が出来ないばかりか疫病により多く兵士死去した。魏が司馬孚20の兵を指揮して東征させると、7月諸葛恪合肥新城包囲解いて撤退した254年朝廷実権を握る司馬師李豊夏侯玄らを処刑し曹芳斉王)の廃位決行した司馬師専横に不安を覚えていた毌丘倹は、文欽に対して打ち解けた態度で臨むようになり、文欽中央捕虜数や戦功水増し報告して認められなかった私怨もあり、毌丘倹結託するようになっていった。 255年正月毌丘倹文欽5・6兵力動員して反乱起こした西方項城進み文欽城外遊軍となった司馬師直ち追討軍の指揮を執って、胡遵諸葛誕王基といった者達に州郡の兵士動員させ親征してきた。毌丘倹文欽項城釘付けとなって寿春に戻る事もできず、なす術もなかった。 司馬師は楽嘉に別働隊送り敵を誘わせると共に、自らも楽嘉に軍を進めた文欽は楽嘉方面迎撃あたった。子の文鴦が楽嘉で奮戦し司馬師追い詰める活躍をしたが(『魏氏春秋』)、文欽自身戦線に間に合わず敗れ司馬師大軍前に逃走した。元曹爽部下尹大目が、陣中での司馬師病状悪化した事を文欽伝えようとしたが、文欽はそれに気付く事ができなかった(『魏末伝』)。文欽は、寿春狙って北上していた呉の孫峻呂拠らの軍と合流し寿春入り目指したが、寿春が既に諸葛誕占領されていたため失敗そのまま呉へ亡命した『三国志』魏志諸葛誕伝」)。 文欽は呉においても、心を抑え他者遜る事ができなかった為、朱異始めとする諸将から常に憎悪されていた。但し、実権を握る孫峻には信任され、仮節・鎮北大将軍幽州牧・譙侯に任命された。256年孫峻北伐勧め呂拠朱異劉纂唐咨と共に先遣隊率いて北上した孫峻急死し孫綝が継ぐと、これに不満な呂拠非難の上奏をした。文欽一度はこれに同調したが、孫綝から呂拠追討命令を受けるとこれに応じ呂拠滅ぼした257年揚州都督復帰していた諸葛誕司馬昭を討つため反乱を起こすと、呉への臣従表明した諸葛誕援軍要請受けて全端全懌唐咨とともに諸葛誕援軍赴いた文欽らは魏軍包囲突破し諸葛誕と共に寿春城に立て籠もった。しかし司馬昭包囲陣が二重三重取り囲んだため、呉からの後続援軍途絶え城中孤立する事となった。籠城翌年になって続いた文欽らは攻城用の兵器持ち出してまで、包囲脱しようとしたが果たせなかった。また、そうこうしている内に城内食糧尽きてしまった。 諸葛誕とは、魏にいた頃からいがみ合っていた経緯があり、唯計略協調していただけであった為、事態が急を告げると互いに猜疑心抱き合う様になった。ついには作戦を巡る意見の対立から、怒った諸葛誕によって殺害されてしまった。 その死は魏の人達を喜ばせた直後文鴦文虎が魏に帰順し諸葛誕攻め加担すると、司馬昭降伏者に恩徳与え方針を採ったため、文欽遺骸収容故郷へ埋葬許されたという。

※この「反逆」の解説は、「文欽」の解説の一部です。
「反逆」を含む「文欽」の記事については、「文欽」の概要を参照ください。

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