反ハプスブルク蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/19 22:00 UTC 版)
「テケリ・イムレ」の記事における「反ハプスブルク蜂起」の解説
フランス王ルイ14世からの支援の約束に勇気づけられ、反ハプスブルク派勢力は1678年、「自由と正義のために」蜂起を開始し、若いテケリを指導者に選んだ。東ハンガリーとハンガリー中央部の鉱山都市はすぐにテケリの手に落ち、1681年に1万人のトランシルヴァニア軍とナジヴァーラド(現在のルーマニア領オラデア)の総督(パシャ)に率いられたオスマン帝国軍を援軍として従えたテケリは、皇帝に休戦を結ばせることに成功した。翌1682年にクロアチア副王ペータル・ズリンスキの娘でラーコーツィ・フェレンツ1世の未亡人であるズリーニ・イロナと結婚した。 テケリはレオポルト1世に対する不信感からオスマン帝国のスルタン・メフメト4世の側に寝返り、スルタンから上ハンガリーの王と認められ、イスタンブール政府に年4万ターラーの貢納金を支払うことになった。この時よりテケリは皇帝から次々に要塞を奪い、その領土をヴァーグ川まで拡げた。1683年にカッサ(コシツェ)とタッリャでテケリが主宰した2度の議会では、議員達はテケリの個人的な魅力に影響されないわけではなかったが、部分的には信頼感を示しつつも、彼がトルコとの同盟のために自国の独立を犠牲にするのではないかという不安を感じていた。このため議会は彼のために助成金も総動員令のどちらも出すことを拒み、テケリはこれらを力ずくで出させることを余儀なくされた。
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