原内閣の下での中断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:43 UTC 版)
「日本の改軌論争」の記事における「原内閣の下での中断」の解説
だが、この計画は後援者をあまり得ることができず、大蔵大臣の原はおろか、首相・蔵相や軍部さえ賛成に回らなかった。計画は早速頓挫したのである。 1918年に起こった米騒動で寺内内閣が崩壊し、政友会の原敬が首相になると、鉄道院総裁には腹心の床次竹二郎を就任させた。床次は早速広軌化計画を弾圧することにし、広軌論者で「改主建従」を標榜する者の多くを左遷した。 1919年2月24日の貴族院特別委員会において、床次は広軌不要の答弁を下し、ここに日本国鉄の標準軌化計画は終焉を迎えた。日本電気鉄道のように、民間で独自に標準軌鉄道を敷設する動きも上がっていたが、実るものは都市周辺の地方鉄道(新京阪鉄道、参宮急行電鉄、湘南電気鉄道など)を除いてほとんどなかった。
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