千葉阿久津連合会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:48 UTC 版)
丈二が明石組の関東進出を防いだことがきっかけで出来た、千葉全域の暴力団の連合体。白浜組を本家とする白浜一家を中心に、2000人以上の構成員からなる。白浜組は江戸時代から続く名門で数多くの分家を持っているが、七代目時代は構成員わずか五名という弱小組織だった。丈二のお陰で会全体の勢いも増すが、派閥は少数の木更津派と多数の千葉派に分かれており、木更津派が会の中核を担っていたことから一時期分裂の危機に陥ったこともある。 政岡 光利(まさおか みつとし) 七代目・八代目白浜組若頭。愚連隊時代にたった一人で尾仁組を潰したことから『鬼殺しの政岡』の異名で呼ばれており、博徒としても義侠心に厚い。八代目となった丈二を若頭として陰日向に支え、丈二が千葉連合会長・白浜一家総長となった時には白浜組九代目・白浜一家若頭を襲名。更に丈二が千葉を去った後は白浜組十代目をタカシに譲り、白浜一家総長となった。その後も度々登場し、丈二のサポート役として活躍する。 年齢の近い石田と仲が良い。風間の妹・美保と婚約していたが、尾仁組との抗争に巻き込まれて殺害され、以来独身を貫いている。 風間 真司(かざま しんじ) 四代目真鍋組幹部・風間組組長。政岡が愚連隊だった頃からの舎弟。政岡が白浜組八代目を襲名できなかったことに逆上、丈二襲撃を命令し一度は殺害するが、奇跡的に蘇生した丈二から八代目としての胸中を打ち明けられ、以降は白浜組と友好的な関係を築く。後に富山が真鍋組五代目を襲名したときに、真鍋組若頭となった。丈二と江原の最終決戦でも登場したが、カルロスの仕掛けた爆弾で吹き飛ばされたと思われる。 富山 新市(とみやま しんいち) 四代目真鍋組若頭・富山組組長。後に五代目真鍋組組長となる。真鍋前組長の勧めもあり、明石組侵攻阻止後、丈二の舎弟となった。丈二が千葉から新宿に戻る時に二代目千葉連合会長に就任したが、江原や反対派の工作にあい、体調の悪化もあり会長を辞任し引退した。 真鍋吉三郎(まなべ きちざぶろう) 四代目真鍋組組長。丈二に仲裁を依頼した加東組との諍いが自分の子分によって破られ、丈二の勧めもあってその責任をとるべく引退を決意、跡目を富山に譲った。昔ながらの極道。 轟 元太郎(とどろき げんたろう) 真鍋の舎弟で吉元組組長。酒癖が非常に悪く、度々問題を起こしていたが真鍋からは「酒がなければ気のいい奴」と評され、それだけに度々酒を控えるように忠告されていたらしい。加東組の店で酔って暴れ、それに怒った加東組組員に刺殺されたことで真鍋組と加東組の戦争に発展する。 加東 慎(かとう しん) 千葉加東本家(加東組)組長。真鍋組との諍いを丈二に仲裁されたことをきっかけに、丈二と親交を深める。明石組との抗争後に丈二の舎弟となり、その後も丈二を慕っている。丈二が新宿へ戻った後、インチキ霊媒師の口車に乗せられ、組を解散しようとしたことがある。丈二と江原の最終決戦でも登場し、突撃の際に出遅れたことが幸いして爆撃はされずに済んだが、自身と共に突撃した人間達が吹き飛ばされたのを見て絶叫する。 吉田慎次郎(よしだ しんじろう) 四代目藤原組組長。丈二の「シマを返せ」という要求にも素直に応じるなど物分かりの良い人物に見えたが、政岡曰く「食えないやつ」で裏では丈二に木更津湾の工事に介入させないよう画策するなど狡猾な一面がある。明石組と白浜組の決闘に参加せず、その責任をとる形で引退した。 浅田 光二(あさだ こうじ) 四代目藤原組若頭・浅田組組長。明石組の策略にはまり、期せずしての関東侵攻の足がかりを作ってしまった。明石組との決闘に参加しなかった責任を取って引退した吉田の跡を継ぎ、藤原組五代目を襲名。同時に組を存続させるため丈二の舎弟となった。 川上 鉄郎(かわかみ てつろう) 二代目千葉連合理事長→三代目会長。富山の二代目引退を受け、旧三代目海江田組による千葉連合と阿久津組の分離工作によって三代目会長となった。丈二が海江田組の新三代目となった後、連合の分裂を危惧した丈二の後押しにより会長を続投。それをきっかけとして丈二に心酔し、兄貴分として心から慕うようになった。
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