加納氏
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加納氏(かのううじ)は、日本の氏族の一つ。
注釈
- ^ 松平備中守久親じたいは『寛政譜』の松平家系図にも記載がある。
- ^ 川村優は「加納家御系譜改正草稿扣」のほか、東京大学史料編纂所所蔵「加納家文書」に含まれる「御親族間合心得覚」を参照している[7]。
- ^ 川村優(1964年)では、久行が今川義元・氏真に仕えて掛川城で落命したと記したのち、「これよりさき」に久直へ徳川家に仕えるよう指示した話が続いている[8]。
- ^ 『南紀徳川史』では、久利が家康に召し出されたのを慶長13年(1608年)とする[6]。
- ^ 『南紀徳川史』では久利の惣領(嫡男)を十郎兵衛(実名不詳)としている。十郎兵衛は家督を継いだものの慶安4年(1651年)に改易された。のちにその惣領の久政(角兵衛)が新規に召し出されたと記す[6]。
- ^ 「松平孫大夫」と記される
- ^ 『寛政重修諸家譜』では、幕府と直接関係しない紀州藩内の動き(直恒による家督継承や久政の「分家」)が記述されておらず、加納家の系譜は久利―久政―久通と結ばれている。
- ^ 忠光の曽祖父忠房の生母は久利の娘。
- ^ 旧一宮藩は現米5470石(表高1万3000石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[24]
出典
- ^ a b 太田 1934, p. 1596.
- ^ 太田 1934, p. 1595.
- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』巻第千四百七十一「加納」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第八輯』p.782。
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 331.
- ^ a b 『南紀徳川史』巻之四十四・名臣伝第五。刊本版『南紀徳川史 第5冊』p.240(Google books)。
- ^ a b c d e f g 『南紀徳川史』巻之四十四・名臣伝第五。刊本版『南紀徳川史 第5冊』p.241(Google books)。
- ^ 川村優 1964, pp. 616–617.
- ^ a b c d e f 川村優 1964, p. 617.
- ^ 川村優 1964, p. 625.
- ^ a b c d e “コラム 紀伊藩士加納家について”. 和歌山県立博物館. 2022年11月21日閲覧。
- ^ 『南紀徳川史』巻之四十四・名臣伝第五。刊本版『南紀徳川史 第5冊』p.242(Google books)。
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第千四百七十一「加納」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第八輯』p.783。
- ^ a b c d e f 『南紀徳川史』巻之四十四・名臣伝第五。刊本版『南紀徳川史 第5冊』p.244(Google books)。
- ^ 『南紀徳川史』巻之四十四・名臣伝第五。刊本版『南紀徳川史 第5冊』p.245(Google books)。
- ^ 『南紀徳川史』巻之四十四・名臣伝第五。刊本版『南紀徳川史 第5冊』p.259(Google books)。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第三百二十八「水野」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.832。
- ^ a b 『南紀徳川史』巻之四十四・名臣伝第五。刊本版『南紀徳川史 第5冊』p.260(Google books)。
- ^ 『断家譜』巻廿七。続群書類従完成会版『断家譜3』p.106
- ^ “コラム 大名になった加納久通”. 和歌山県立博物館. 2022年11月21日閲覧。
- ^ “一宮藩とは”. コトバンク. 2020年12月28日閲覧。
- ^ 新田完三 1984, p. 86.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 150.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 270.
加納家
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丹沢山地の麓にある神奈川県上荻野の豪農。両親、祖母、姉、弟、妹がいる。当主を務める父は中気を患っており、加納を快く送り出す一方で内心では彼が家を継ぐことを希望していた。加納の逮捕後、父と祖母は亡くなり、姉の縁談は破断、家計は傾き、警察の監視下に置かれるなど没落している。
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