副帝叙任と粛清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 05:49 UTC 版)
「コンスタンティウス・ガッルス」の記事における「副帝叙任と粛清」の解説
350年、コンスタンティヌス1世の三男でコンスタンティウス2世の共治帝であったコンスタンス1世が配下の将軍マグヌス・マグネンティウスに暗殺された。マグネンティウスは反乱を起こし帝国西方で帝位を僭称した。 コンスタンティウス2世はマグネンティウスを討伐するための軍を起こしたが、東方のサーサーン朝ペルシア帝国への不安もあったため、351年3月15日、宮廷に留め置かれていたガッルスを副帝に叙任し東方を任せた。また、コンスタンティウス2世の妹のコンスタンティナをガッルスへと嫁がせた。ガッルスとコンスタンティナの間にはアナスタシアという娘が生まれた。 ガッルスは即位前から起こっていたユダヤ属州の反乱を収めるべく軍を起こし、ウルシキヌスという将軍を派遣して反乱を鎮圧させた。 更に354年には、セレウキアを襲撃したイサウリアのイサウリア人(ドイツ語版、ハンガリー語版、オランダ語版)を討伐すべく軍を送った。 その後、ガッルスはサーサーン朝ペルシア帝国へ遠征を計画し軍を編成し始めた。その為にアンティオキアの穀物価格は高騰し住民の反感が高まり反乱の兆しさえ見えた。軍政に失敗したガッルスを罷免すべくコンスタンティウス2世は、ガッルスに謀反の嫌疑をかけ自らの許へ召還し裁判にかけた。 裁判でガッルスは無実を訴えたが、コンスタンティウス2世は次第に猜疑心の強さからガッルスを本当に謀反を企てていると思い始め、ガッルスに死刑を宣告した。ガッルスはポーラに送られてそこで処刑された。 同じように弟のユリアヌスも嫌疑をかけられたが半年後に疑いは解け、翌355年にユリアヌスは兄ガッルスの後継の副帝に任じられた。
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