制作経緯と背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 14:21 UTC 版)
「エウロペの略奪 (ティツィアーノ)」の記事における「制作経緯と背景」の解説
《ポエジア》はフェリペ2世の私室を飾るために依頼された。連作を《ポエジア》と名付けたのはティツィアーノ本人である。当初、ティツィアーノは『ペルセウスとアンドロメダ』(Perseo e Andromeda, 1554年-1556年)のペアリングとして『イアソンとメデイア』を予定していた。しかしこの作品は制作されず、代わりに『エウロペの略奪』が制作された。 エウロペの物語は中世において、祝婚、海上進出、領土拡大、子孫繁栄などの意味を持ち、その図像はしばしば政治的な意味を伴った。これはエウロペがゼウスに愛されて、海を渡り、クレタ王家の母となったことによる。ティツィアーノが制作を開始した1559年は依頼主のフェリペ2世にとって重要な年であり、1557年のサン=カンタンの戦い(英語版)でフランスに勝利したフェリペ2世は、1559年4月に締結されたカトー・カンブレジ条約によって60年にもおよぶイタリア戦争に終止符を打ち、フランスはイタリアの領土権を放棄、対してスペインはイタリアにおける覇権を確立した。またフェリペ2世はフランス国王アンリ2世の娘エリザベート・ド・ヴァロワと3度目の結婚をした。 フェリペ2世はこれまで結婚生活に恵まれなかった。最初の妻マリア・マヌエラは長男ドン・カルロスを生んですぐに死去した。また1553年にイングランド女王メアリー1世と2度目の結婚をしたとき、ティツィアーノは結婚式が行われたイングランドに『ヴィーナスとアドニス』(Venere e Adone, 1554年)を送ったが、2人は早々に別居生活に入った。これらの要因からティツィアーノはエウロペの物語を主題として選択した。ティツィアーノがフェリペ2世に『エウロペの略奪』の制作開始を伝えたのは条約締結後の1559年6月19日の手紙においてであり、画家はエウロペを連れ去ったゼウスにフェリペ2世を重ねることで、彼を讃えるとともに、その覇権と子孫の繁栄を願ったと考えられる。完成はその3年後で、ティツィアーノは1562年4月26日の手紙で絵画が完成したこと、『エウロペの略奪』が連作の最後の作品であることを伝えている。
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