初期作品群と「6人組」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 10:20 UTC 版)
「フランシス・プーランク」の記事における「初期作品群と「6人組」」の解説
プーランクは1917年12月に『黒人の狂詩曲』で作曲家としてのデビューを飾った。これは全5楽章からなるバリトンと小編制のアンサンブルのための10分ほどの楽曲である。この作品はサティに献呈され、メゾソプラノのジャーヌ・バトリが手がけていた新作によるコンサート・シリーズの中で初演された。当時のパリではアフリカの芸術が流行しており、プーランクはリベリアのものであるということになっていた韻文が出版されているのを喜んでいたが、パリでそぞろ歩きを好む人々のスラングで溢れていた。ある詩は曲中の2つの部分に使用されている。初演に抜擢されたバリトンは怖気づいてしまい、歌手ではない作曲者自身が飛び入りで参加した。こうした「jeu d'esprit(機転による演奏)」はこの後も数多く行われることになり、英語話者の評論家は「leg-Poulenc」と呼ぶようになった。ラヴェルはこの作品を面白がり、プーランクの自ら民話を生み出す能力に言及している。強く感銘を受けたストラヴィンスキーは自らの影響力を行使してプーランクとある出版社の契約を確保してやり、プーランクはこの親切を生涯忘れることはなかった。一方、1917年9月26日にはパリ音楽院の教授でオペラ・コミック座の指揮者としても活躍していたポール・ヴィダルのもとを訪れ、作品の提示を求められたため『黒人の狂詩曲』を見せたが、徹底的に罵倒されたという。 1917年にラヴェルと知り合い、音楽について真剣な議論を交わすほどの関係になった。自分が高く称賛する作曲家よりもなんとも思わない作曲家を評価するというラヴェルの判断を聞き、プーランクは落胆することになる。彼はこの不幸な出会いをサティに打ち明けた。サティは見下げるかのようなラヴェルの通り名で応じている。曰く、ラヴェルは「多量のがらくた」を語ったのだという。長年にわたり、プーランクはラヴェルの音楽についてどっちつかずの態度を取ったが、人間としては敬意を払ってきた。ラヴェルが自作の音楽について謙虚な態度を取っていることが特にプーランクには魅力的に映り、彼は生涯を通じてラヴェルの示した模範を追求したのである。 実業家であった父の反対によりパリ音楽院には進学せず、第一次世界大戦末期から直後の戦後期にあたる1918年1月から1921年1月まで、プーランクは徴兵されフランス陸軍に従軍していた。1918年7月から10月の西部戦線への派兵を経て、以降は補助的な任務を歴任し、最後は空軍のタイピストとして兵役を終えた。任務中にも作曲のための時間を取ることが可能だったため、ピアノのための『3つの無窮動』や『4手のためのピアノソナタ』がサン=マルタン=シュル=ル=プレ(英語版)の地元の小学校のピアノを用いて書かれた。またアポリネールの詩のよる初となる歌曲集『動物詩集、またはオルフェのお供たち』が完成している。ソナタは世間に大した印象を残すことはなかったが、歌曲集で彼の名がフランスで知られるようになり、『3つの無窮動』はたちまち国境を超える成功を収めた。戦時中に音楽制作の急場を経たことで、プーランクは使用可能ないかなる楽器に対しても作曲を進めるということについて多くを学んだのであった。そしてその後、彼の一部の作品は一般的でない演奏者の組み合わせを想定したものとなっていく。 キャリアのこの段階に至り、プーランクは自身が通り一遍の音楽教育を受けていないことを意識するようになった。評論家で伝記作家のジェレミー・サムズは、世の中の潮流がロマン派の豊潤さに背を向け、技術的には洗練されていないにもかかわらず、「新鮮で無頓着な魅力」に賛意を示してくれたのは、彼にとって幸運なことだったと記している。モンパルナス地区に所在するサル・ホイヘンスでプーランク初期の4作品が初演されることになるが、ここでは1917年から1920年にかけてチェリストのフェリクス・ドラグランジュが若い作曲家たちの音楽による演奏会を催していた。そうした作曲家にはオーリック、デュレ、オネゲル、ダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェールがおり、彼らにプーランクを加えて一緒に「6人組」として知られるようになる。評論家のアンリ・コレは彼らのあるコンサートが終わった後で『ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ』と題した論文を『コメディア』誌上に発表している。ミヨーによると コレは全くもって恣意的なやり方で、オーリック、デュレ、オネゲル、プーランク、タイユフェール、そして私の6人の作曲家の名前を選んだ。それは単に我々が互いに知り合いかつ友人であり、同じプログラムに掲載されていたという理由に過ぎず、我々の考え方や気質が異なることは微塵も考慮されていない。オーリックとプーランクはコクトーの思想を追っており、オネゲルはドイツ・ロマン派の申し子、私が傾倒しているのは地中海の抒情的芸術なのだ(中略)コレの論文が与えた広い影響は6人組を誕生せしめてしまうことになった。 コクトーは年代こそ「6人組」と近かったものの、この一団にとっては父親的な存在であった。彼の文芸スタイルはエルの表現によれば「逆説的かつ精巧」で、反ロマン主義、簡潔にして不遜なものだった。これがプーランクには非常に魅力的にうつり、彼がコクトーの言葉に曲を付けたのは1919年が最初で1961年が最後となる。「6人組」のメンバーが共同制作を行う際には、各人は各々の担当部分を仕上げて、それらを繋げて作品とする形式を取った。彼らによる1920年のピアノ組曲『6人組のアルバム』は6つの独立した無関係な楽曲で構成されている。また1921年のバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』にはミヨーが3曲、オーリック、プーランク、タイユフェールが2曲ずつ、オネゲルが1曲を提供した。既に6人組から距離を置いていたデュレは曲を書いてない。 1920年代になってもプーランクは正式に音楽を学んでないことを気に病み続けていた。サティは音楽学校というものに懐疑的だったが、ラヴェルは作曲の講義を受けてみてはどうかと助言した。ミヨーからは作曲家で教育者のシャルル・ケクランを勧められた。プーランクは1921年から1925年にかけて断続的に彼の下で学ぶことになる。
※この「初期作品群と「6人組」」の解説は、「フランシス・プーランク」の解説の一部です。
「初期作品群と「6人組」」を含む「フランシス・プーランク」の記事については、「フランシス・プーランク」の概要を参照ください。
- 初期作品群と「6人組」のページへのリンク