初期の開拓、交易および金鉱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/28 01:47 UTC 版)
「コロラド準州」の記事における「初期の開拓、交易および金鉱」の解説
1779年、コロラド南西部でニューメキシコの知事フアン・バウティスタ・デ・アンサルデ・アンサが、クエルノ・ヴェルデの指揮するコマンチェ族と戦い打ち破った。1786年、デ・アンサはコマンチェ族と休戦し、アパッチ族に対抗する同盟を結んだ。 カリフォルニア・ゴールドラッシュの1848年、チェロキー族の集団がカリフォルニアに向かう途中でサウスプラット川とキャッシュ・ラ・プードル川を越えた。彼等は山脈を越えている時にサウスプラット川とその支流で金脈の手がかりを見つけたと報告した。その南部のサンリュイ渓谷には、初期メキシコ人の家族がメキシコ政府から大きな土地の認証を受けていた(後に合衆国によって異議申し立てを受けた) 18世紀の初期、サウスプラット川上流は毛皮交易業者が侵入していたが恒久的な開拓地は無かった。この地域でのアメリカによる恒久的開拓地を作る最初の動きは、1854年にホームステッド法による土地の所有権登録を認めたカンザス・ネブラスカ法と共に始まった。所有権を得て最初に入った開拓者の中には、かって罠を仕掛けていたこの地に戻った元毛皮業者達がいた。アントワーヌ・ジャニスやその他ララミー砦(英語版)から来た罠猟師達が1858年にキャッシュ・ラ・プードル川沿いのラポルテ近くに町を築いた。 1858年、グリーン・ラッセルとジョージア人の集団が、カリフォルニアから戻ったチェロキー族からサウスプラット川の金の話を聞いて、彼等の話した地域で採鉱する準備に取り掛かった。その夏、サウスプラット川とチェリークリークの合流点に採鉱キャンプ、オーラリア(ジョージア州の金鉱キャンプに因んで名付けた)を設立した。ジョージア人達は次の冬に故郷に帰っていった。ラッセルはアーカンザス川沿いのベント砦で、カンザス州の土地投機家ウィリアム・ラリマー・ジュニアに、彼等が見つけた砂金について語った。ラリマーは事業化の機会だと認めてオーラリアに急行した。1658年11月、オーラリアからチェリークリークに跨る地域の所有権を登録し、カンザス準州の当時知事だったジェイムズ・W・デンバーにあやかってそこを「デンバー」と名付けた。ラリマーは自分で金を採鉱するつもりはなく、新しい町を発展させて熱心な採鉱者に不動産を売ることを望んだ。 ラリマーの新しい町を発展させるという計画はすぐに実行され、翌年の春までにサウスプラット川沿いのカンザス準州西部に川底をあさる鉱山師が殺到し、これがコロラド・ゴールドラッシュと呼ばれるようになった。早く到着した者達は山中上流に素早く分け入り、砂金の鉱脈を求め、ブラックホークやセントラルシティに採鉱キャンプを設立した。ウィリアム・A・H・ラブランドなど民間人の競合集団が、増加する鉱夫の波に必需品を供給することを意図して、デンバーの西にある山脈の麓にゴールデンの町を造った。
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