初期の記述
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モードレッドの名を残す現存最古の文献は10世紀の『カンブリア年代記』であり、以下の通り記されている。 537. XCIII. Annus. Gueith Camlann, in qua Arthur et Medraut corruere; et mortalitas in Brittania et in Hibernia fuit. 537年。カムランの戦い――その最中、アルトゥル(アーサー)とメドラウト(モードレッド)が戦死。そして、ブリタニア(ブリテン)とヒベルニア(アイルランド)は荒廃した。 しかし、この記述からは、アーサーとモードレッドがどのような関係であったのか、味方であったのか敵であったのかすら読み取ることができない。 初期のウェールズ語のテキストでは、モードレッドは勇猛で栄誉ある騎士と解釈されていた。グウィネズ王グリフィズ・アプ・カナン(英語版)(1137年死去)の宮廷詩人であったMeilyr Brydydd(英語版)は、王の武功を讃えるのに「メドラウドの気質」を持っていると賞賛しており、Meilyrの息子グワルフマイもポウィス王マドッグ・アプ・マレディズ(1160年死去)を「アルスィル(アーサー)の力とメドラウド(モードレッド)の良い気質」を兼ね備えていると謳っている。後世の伝説で裏切り者のイメージがついたのは、ジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』の創作である可能性も指摘されている。
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初期の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:14 UTC 版)
ゲルマンの女予言者についての最も古い記述はローマ人によるキンブリ族についてのもので、彼女たちは白い服を着た老女だった。彼女らは戦勝の捕虜を生贄にして、来るべき出来事を予言するために血を撒き散らした。 『ガリア戦記』第1巻50章の中で、ユリウス・カエサルはアリオウィストゥスに従うゲルマン族の部族との衝突の過程を書く(紀元前58年)。 何故アリオウィストゥスが交戦しなかったのかとカエサルが捕虜に尋ね、その理由を知った。ゲルマン人は彼らの主婦たち(matrons)がくじや占いで、戦いが目的に叶うか否かを宣言する習慣があり、彼女らは「新月の前に戦えば、天意によりゲルマン人が勝利することはない」と言ったことによるものだった。 タキトゥスもまたゲルマン族の女予言者について自身の著書『同時代史(英語版)第4巻61章で、とりわけウェレダについて記している。「ゲルマニア人は昔からの習慣で大方の女を予言者とみなし、迷信が高じると、女神と崇めていた。」 ヨルダネスは自著Getica(英語版)でゴート人がオイウム(英語版)(ウクライナ)に定住したときに、フィリメル(英語版)によって追放されたゴート人のhaliurunnas について記述している。この名称はおそらくゴート語で「地獄の走者」あるいは「死の王国へ走る者」を意味する Halju-runnos の転訛である。魔女たちは遠くへの避難を余儀なくされ、この記録によればフン族を産んだ。 790年代に南イタリアで没したランゴバルドの歴史家、パウルス・ディアコヌスは、自分の祖先がかつてどのようにして南スカンディナヴィアから旅立ったかを記した 。彼は昔ランゴバルド族とヴァンダル族との間で起きた戦いについて語る。後者はゴーダン(おそらくオーディンのこと)に助言を求め、ランゴバルドのリーダーのイボールとアイオの母ガンバラはゴーダンの配偶者であるフリーア(Frea, おそらくフレイヤかフリッグ)に助言を求めた。フリーアはガンバラがオーディンに一芝居打つ手助けをし、ガンバラと女神の良好な関係により、ランゴバルド族は戦いに勝利した。 おそらくヴォルヴァによって行われたと考えられる人身御供についての詳細な目撃記録は、アフマド・イブン・ファドラーンによる921年に派遣されたヴォルガ・ブルガールへの外交使節団の記録の一部によってもたらされている。スカンディナヴィアの首長(英語版)の北欧の葬儀(英語版)によれば、志願した奴隷の少女が主人ために死んだ。10日の祭祀の後、彼女は老女(「死の天使」と呼ばれる巫女の一種)に刺されて死に、首長の船で彼と共に焼かれた(オーセベリ船も参照のこと)。
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