初期の解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 01:33 UTC 版)
初期の多くの歴史家の説明は、超自然的な言い伝えに影響されていた。魔術師マーリンが巨人を使役して作らせたとか、マーリンがアイルランドのキララウス山から魔法で運んできたなどという伝説もある。このほか、悪魔が作ったとするものもある。ハンチントンのヘンリーが、1130年頃この遺跡に最初に言及した。そのすぐ後に、モンマスのジョフリーが、アーサー王と関連付ける架空の記録を最初に記した。これにより、この遺跡は中世ヨーロッパのロマンスに取り込まれていくことになる。 1615年、イニゴ・ジョーンズは、ストーンヘンジがカエルス(ギリシアの天王神ウラヌスのラテン語名)に捧げられたローマの神殿であり、トスカナ式建築で作られたと主張した。後世の注釈者は、デーン人がこれを建てたと言い続けた。実際、19世紀の末に至るまでは、この遺跡はサクソン人かその他の比較的新しい民族の手によるものだと広く思われていた。 この遺跡を調査する最初の学術的試みは、1640年頃、ジョン・オーブリーによって行われた。彼はこの遺跡の測量図を残した最初の人物となり、オーブリーホールなどにその名を残している。この図があったために、形状と大きさについてのさらなる分析が可能になった。この業績により、彼は石の配置が天文学または暦学上の役割をもっていることを示すことができた。オーブリーはこれをドルイドに関連した遺跡と誤って結論づけた。 ウィリアム・ステュークリは、1740年に出版したStonehengeなどの著作でオーブリーの見解を支持した。またステュークリは、ドルイドをキリスト教と結びつけようとした。 しかしこれらの見識は19世紀の転換期までに否定された。ジョン・ラボックは付近の古墳から発見された青銅器に基づき、この遺跡が青銅器時代のものであることを示した。
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