初期の著作とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書

初期の著作とは? わかりやすく解説

初期の著作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 13:01 UTC 版)

ベルナール・フォントネル」の記事における「初期の著作」の解説

まず詩作試みアカデミー・フランセーズ懸賞何度となく応募するがすべて落選。たびたびパリ訪れ、アベ・ド・サン=ピエール、アベ・ヴェルトー、数学者ピエール・ヴァリニョンらの知遇を得る。コルネイユらの後押し受けて劇作家になることを夢みるが、1680年初演され自作悲劇『アスパール』が酷評される。1688年の『牧歌詩集』も不評1689年初演オペラテティスペーレウス』はヴォルテールらの絶賛浴びたが、興行的に同じく失敗終わり劇作家としてが出なかった。 フォントネル文学的名声確立したのは何よりもまず1683年著作『新・死者との対話』によってである。1685年匿名出版された『騎士エル……氏への恋愛書簡』は軽妙な筋立て小咄集めたもので、これもすぐさま注目集めた1686年に彼は『アジャオ人物語』の中で、ローマカトリック)とジュネーヴプロテスタント)との宗教対立を、二人登場人物ムレオ王女(Mreo=Romeアナグラム)とエネグ王女(Eenegu=Geneve)の対立仮託し宗教問題果敢に発言してみせた。 1686年現れた『世界の複数性についての対話』は、フォントネル名声をますます確かなものにした。この本は架空侯爵夫人「私」との対話という形式借りて宇宙とは何かについて詳細に述べたのである。「それは本当に大き宇宙で、私はその中で自分見失ってしまいますわ。もうどこにいるかも分からず、私なんてもう何ものでもないのですわ」。フォントネルは、コペルニクス地動説に対して当時の人々感じた不安を以上のように要約し、それが杞憂にすぎないことを主張している。「私は却ってゆったりした気分なりますよ。この天蓋に無限の広がり深さ与えられ、それが数かぎりない渦動分かれた今、私は自分が一層自由に呼吸できるように思います」(赤木昭三訳)。フォントネルその後長きわたって王立科学アカデミーリーダーになるが、このように小説という形式借りて科学知識提供したために、自然学親しみのない人々でも当時自然学進歩実感することができた。これによってフォントネルデカルト天文学理論普及させようとした。フランスでは18世紀中頃ニュートン学説普及するまで、デカルトいわゆる渦動説」が有力だったが、フォントネルのこの書物渦動説普及大きく貢献した

※この「初期の著作」の解説は、「ベルナール・フォントネル」の解説の一部です。
「初期の著作」を含む「ベルナール・フォントネル」の記事については、「ベルナール・フォントネル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「初期の著作」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「初期の著作」の関連用語

初期の著作のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



初期の著作のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのベルナール・フォントネル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS