初期の職歴と最初の結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 09:29 UTC 版)
「ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「初期の職歴と最初の結婚」の解説
グリスウォルドは短期間印刷所の徒弟として働いた後、ニューヨーク州シラキュースに移転し、そこで数人の友人と共に「ポーキュパイン」と題した新聞を発刊した。この新聞は意図的に後に単なる意地の悪い批評として記憶されたものについて土地の人々を対象にしていた。 1836年にはニューヨーク市に移転し、同年3月、19歳のキャロライン・サールズに紹介され、その後に結婚した。グリスウォルドはニューヨーク地域で様々な出版社に編集者として雇われた。10月、ホイッグ党員として選挙に出馬することを検討したが、党の支援を得られなかった。1837年、バプテストの牧師の免許を得たが、終生変わらぬ宗派となったわけではなかった。 グリスウォルドは1837年8月にキャロラインと結婚し、2人の娘が生まれた。次女が生まれた後に、グリスウォルドは家族をニューヨークに残し、フィラデルフィア市に移動した。1840年11月27日の出発は全くの突発事であり、ホレス・グリーリーの出していた「ニューヨーク・トリビューン」紙の職を辞し、数千冊におよぶ蔵書も残して行った。フィラデルフィアの「デイリー・スタンダード」紙のスタッフに加わり、文芸評論家としての評判を築き、その残忍さと執念深さで知られるようになった。 1842年11月6日、ニューヨークの妻が3人目の子供である息子を出産した後で、グリスウォルドは妻の元を訪れた。その3日後、フィラデルフィアに戻ったグリスウォルドは、妻と息子が死んだことを知らされた。大きな衝撃を受けたグリスウォルドは彼女の棺と共に列車で旅し、30時間もその傍を離れることを拒み続けた。仲間の乗客が彼に少しは眠るように誘うと、彼女の唇に接吻し、彼女を抱きしめることで答えた。2人の子供達もその傍で泣いていた。葬儀の後、他の参列者が去った後でも、墓地を離れることを拒み、親戚に促されてやっと離れた。『五日間』と題するキャロラインに捧げる長い無韻詩を書き、それを1842年11月16日の「ニューヨーク・トリビューン」紙に掲載した。グリスウォルドはキャロラインが死んだと考えられず、再会できることを夢見ることも多かった。埋葬から40日が経ち、グリスウォルドは彼女の廟室に入り、その髪を一房切り、額と唇に接吻し、何時間も泣いていた。ある友人がグリスウォルドを彼女の傍に発見したのは30時間も経った後のことだった。
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