初期の歴史と法人化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 10:11 UTC 版)
「コーコモー (インディアナ州)」の記事における「初期の歴史と法人化」の解説
開拓者の伝説では、コーコモーという名前の由来は、インディアンの言葉で「黒い胡桃」を意味する「コーコモコ」あるいは「マココモ」を縮めて「コーコモー」としたものであり、マイアミ族最後の酋長リチャードビルの4人いた息子の1人の名前だったと言われている。伝承では身長が7フィート (210 cm) あったと言われ、誤って「酋長」の肩書きが与えられたとされている。「コーコモーの父」と呼ばれるデイビッド・フォスターは、コーコモーが「地球上で最も気難しい町」だったので、「最も気難しいインディアン」でるコーコモーから町の名前を採ったと主張していた。コーコモーは1775年に生まれ、1838年に死んだと考えられている。コーコモーが存在したという唯一の文献証拠は、その「妻」のために12ドルで小麦粉1樽を購入したという交易所の記録である。コーコモーの遺骸は、1848年に製材所建設時に他の者達の遺骸と共に発見され、パイオニア墓地の「北東隅」に移葬されたと伝えられている。ペルー・マイアミ族の伝承では、マイアミ族が「コーカマー」と名付けたソーンタウンから町の名前が採られており、その名前は1834年のウォバシュ川フォークス条約に「コーカムワー」として出ている。この名前は「ダイバー」(水に潜る水鳥の総称)と翻訳された。 インディアン強制移住の結果として、1840年までにハワード郡(1846年まではリチャードビル郡)にいたマイアミ族は約200人にまで減少した。主要な開拓地はワイルドキャット・クリークの南岸にあったコーコモー村だった。インディアン道がコーコモーとフランクフォートやソーンタウン(ワイルドキャット・クリークに沿って)を繋ぎ、カスビルを経てペルーに、またグリーンタウンを経てメシンガムシャに繋がっていた。当時、デイビッド・フォスターが保留地の境界線とワイルドキャット・パイクの交差点近くにハワード郡の交易基地を持っており、そこで合法の取引と、マイアミ族に対するアルコールの違法な販売をおこなっていた。 1844年にリチャードビル郡が設立されてから間もなく、郡庁所在地を設立するために指名されたコミッショナーが、フォスターの土地から寄付を得られるようフォスターと交渉した(1846年の徴税記録では、フォスターは552エーカー (2.23 km2) の農地と事業地区の67区画を所有していた)。その要請があったときに、コーコモーにあったものといえば、フォスターの丸太造り家屋と納屋、およびマイアミ族の小屋数個に過ぎなかった。コミッショナーはワイルドキャット・クリークの南岸にある肥沃な土地の寄付を求めたが、フォスターはそれを拒否し、その代わりに深い森と湿地のあったクリークの北岸40エーカー (0.16 km2) を寄付した。その寄付の条件として、フォスターがその土地に郡庁舎を建てることを求めていたが、フォスターはそれを後に辞退し、ルーファス・L・ブラワーズが28ドルで請け負った。その建設の遅れで2ドルの罰金を取られた。丸太造りの郡庁舎は1845年に完成した。 1855年6月、ヘンリー・A・ブラウズがハワード郡政委員会に、コーコモーの町を法人化するよう申請した。最初の選挙は、不明の理由で行われなかったが、1855年10月1日に選挙が行われた。法人化賛成62票反対3票という結果により、郡政委員会は町の法人化を決定した。 1865年3月31日、コーコモーを市に昇格させるための住民投票が行われた。その提案が成立し、ネルソン・パーダムが初代市長に選出された。
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