初期の敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:22 UTC 版)
「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「初期の敗北」の解説
アントニヌス帝は死の間際に何時の日か帝国の脅威となるだろう周辺国の君主について言い残したが、その一人に含まれていたパルティア王ヴォロガセス4世による戦乱が引き起こされた。161年に、帝国の庇護下にあったアルメニア王国にパルティア軍が侵攻、王を追放して新たに親パルティア派の君主を立てる行動に出た。アルメニア王国を管轄内とするカッパドキア総督マルクス・セダティウス・セウェリアヌス(Marcus Sedatius Severianus)はガリア地方で幾つもの軍功を挙げた人物であった。セウェリアヌスは占い師の助言もあって積極的な攻勢を決断し、軍を率いてアルメニア王国へ向かった。第9軍団ヒスパナを中心とするセウェリアヌス軍はアルメニア領内に到達したが、途中でパルティア軍の伏兵攻撃に大敗を喫してカッパドキアへ敗走した。 時同じくしてブリタンニア・ラエティア・ゲルマニアなどでも周辺勢力の攻撃が活発化、特にカッティ族とタウヌス族の存在が国境防衛を脅かしていた。アウレリウスはこうした状況に何ら有効な準備を行えなかった。アウレリウスは政務に関する経験は豊富ながら軍事的な知識や才覚に乏しく、国境地帯の属州総督を経験したこともなかった。状況は刻一刻と悪化を続け、対応に遅れるアウレリウスを尻目にパルティア軍はカッパドキアに続いてシリア総督の軍勢も撃破する勝利を挙げた。 それから暫くして漸くアウレリウスは対パルティアの増援部隊を編成する準備を整え、元老院議員ユリウス・ゲミニウス・マルキアヌスを司令官に第10軍団「ゲミナ」をウィンドボナから派遣した。更に追加で属州ゲルマニア・スペリオルのボンナから第1軍団「ミネルウァ」を、属州パンノニアのアクィクムから第2軍団「アディウトリクス」を、そして属州ダキアのトロエミスから第5軍団「マケドニカ」をそれぞれ東方属州に投入した。必然的に西方の守りは弱まる事になるため、アウレリウスは各国境駐屯軍に周辺勢力を刺激しないように厳命した。これらの増援軍と現地軍を取りまとめる属州シリアの総督には新たにアウレリウスの従兄弟マルクス・アンニウス・リボが任命された。しかし彼は特段の軍事的功績があった訳ではなく、アウレリウスは能力より自らが信頼できる人物を送り込むという決断を下した。 遠征軍派遣後、アウレリウスはエトルリア地方のアルシウムで4日間の休養を取ることになった。アウレリウスは文通を続けていたコルネリウス・フロントにアルシウムの滞在について相談事はしないと書き送っている。フロントは「君が暇を潰すためにアルシウムへ向かったことを知らないとでも?」と皮肉を述べ、きちんと休養を取るのであれば先帝アントニヌスの様に釣りやレスリングに興じてはどうかと助言した。しかし不安に苛まれていたアウレリウスはもっぱら滞在中は公文書を書き続けることで時間を潰していた。アウレリウスはフロントに「私はどんな状態でも行わなければならない義務がある」と書き、手紙の内容からは敗北の責任を感じている事が伺える。 フロントはアウレリウスに幾つかの読み物を差し入れる一方、現在も保存されている「De bello Parthico (パルティア戦争について)」と題した長大な手紙をアウレリウスに送っている。この手紙は古今東西の歴史上における事件や人物・格言を例に出しながら、不安を感じているアウレリウスを宥める目的で書かれている。手紙は「過去にローマが敵に敗れ去った事は何度もある」とした上で、「だが最後は常にローマがその力を敵に思い知らせてきたのだ」と記述されている。
※この「初期の敗北」の解説は、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の解説の一部です。
「初期の敗北」を含む「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事については、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の概要を参照ください。
- 初期の敗北のページへのリンク