初期の形態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 14:51 UTC 版)
アップランド・サウスは18世紀終盤から19世紀初めにかけて特徴ある地域として表に出てきた。植民地の海岸部から内陸への移住と入植の様相は何十年にもわたって造り上げられてきたが、18世紀の終わりになってその規模が劇的に拡大した。一般的な様相はバージニア州、ノースカロライナ州およびメリーランド州の低地やピードモント地域から西方への移住であり、またペンシルベニア州からの南西方面への移住であった。ヨーロッパからの大量の移民がフィラデルフィアに到着し、大馬車道(en:Great Wagon Road)を西と南へ向けて入り、大アパラチア渓谷を通過して、アパラチア高原に入った。これらバージニア州とペンシルベニア州からの移民の流れによって、1750年には既にシェナンドー渓谷が十分に開拓されている状態になった。 これら移民の流れはアパラチア山脈を通過して拡がり、アパラチア台地地域を通って西方にオザーク高原やウォシタ山地に入り、最終的にテキサス丘陵地帯への入植にまで導かれた。これら初期の開拓者の主な民族は、イギリス人、スコットランド人、スコットランド系アイルランド人およびドイツ人であった。アップランド・サウスの初期文化は他のヨーロッパ系民族にも影響を受けた。例えば、ニュースウェーデンのスウェーデン人やフィンランド人であり、比較的少数ではあったが、ドイツ人やスコットランド系アイルランド人が到着するまえにペンシルベニア州を開拓しており、丸太小屋や丸太を割って作ったジグザグのフェンスのような森林で生活する技術、および樹木の環状剥皮や焼き畑を使って森林を一時的な農作地や牧草地に変える移動耕作の方法を伝えた。 アパラチア山脈の麓の丘陵で始まった入植の様相は、西部の山岳地や高原、さらにミシシッピ川を越えてオザーク高原地域でも受け継がれて拡がった。そこでは先住民族の攻撃という危険性があったので、人々は初め、集合した基地「ステーション」に入植したが、危険性が減少すると田舎に分散し親類縁者で固まるという傾向になり、比較的町や都市は少なかった。アップランド・サウスの初期開拓者は小規模の農作、家畜の飼育および狩猟を行う傾向があった。アップランド・サウスのこの入植形態はディープ・サウスや中西部とは明らかに異なっていた。
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