初期の問題および失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 20:22 UTC 版)
「サミュエル・コルト」の記事における「初期の問題および失敗」の解説
コルトは前述のための新しい機械の予算を会社の所有者に掛け合ったが、説得するのに難渋したので、路上での興行に戻った。雑貨屋で人々に銃を実演するのはうまく行かず、従兄弟から借金をしてワシントンD.C.に行き、アンドリュー・ジャクソン大統領に掛け合った。ジャクソンはコルトの銃を認め、ジャクソンが認めたという文書を書いた。この承認を得たコルトはアメリカ合衆国議会を通じて、軍隊での実演の機会を得たが、その武器を買うという予算までは付かなかった。サウスカロライナ州が50挺ないし75挺を買うという約束をしたが、会社が製造を迅速に始めなかったので失敗している。 リボルバーを売るときに何度も直面した問題は、1808年の州兵法の規定を変えることが出来なかったことで、州兵法の下で購入される武器は、合衆国で現に使われているものに限られていた。言いかえれば州兵は、アメリカ国軍に使われていない武器を購入する予算を付けることが、公式には許されていなかった。 マーティン・ヴァン・ビューレンが大統領になると、続いて起こった経済危機で会社は破産したが、フロリダで起こったセミノール戦争で救われた。この時に初めて、リボルバー拳銃とリボルバー・マスケット銃が同時に販売できている。フロリダの兵士は新しい武器を愛用したが、また一つの問題が持ち上がった。通常とは異なる撃鉄内蔵型の設計があり、当時の常識を60年ぐらい先行していた。当時としては撃鉄を外付けした銃に慣れた兵士に訓練するのが難しく、多くの好奇心の強い兵士がロックを取ってしまった。このことは部品の破損につながり、ねじ山が削げて弾詰まりを起こした。コルトは直ぐに設計をやり直し、撃鉄を外付けにした。 1843年末、州兵法やその他多くでトラブルを経験し、フロリダに渡した拳銃の支払いも失われ、パターソンの工場は閉鎖された。
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