ふんけい‐の‐まじわり〔‐まじはり〕【×刎×頸の交わり】
刎頸の交わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 14:34 UTC 版)
刎頸の交わり(ふんけいのまじわり)は、中国の戦国時代に趙で活躍した、藺相如と廉頗が残した故事。刎頸の友ともいう。『史記』原文には「刎頸(之)交」とある。刎頸とは「頸(くび)を刎(は)ねる」、即ち斬首のことで、「お互いに首を斬られても後悔しないような仲」という成語として用いられる。
- ^ 『太平御覧』巻四百九・人事部五十・交友四に引く孫楚『牽招碑』。
- ^ 1978年(昭和53年)7月5日、ロッキード裁判丸紅ルート第51回公判。このとき小佐野は検察側証人として出廷し、検察官から「田中さんとは“刎頸の友”といわれていますが、そういう間柄ですか?」と質問されて「私は“刎頸の友”といったそんな……自分でいった覚えはないのですが……」と発言している。立花隆 『ロッキード裁判とその時代』 2巻 朝日新聞社〈朝日文庫〉、1994年4月1日、40頁。ISBN 4-02-261009-3。
- ^ “第71回国会 衆議院 物価問題等に関する特別委員会 第11号” (1973年4月26日). 2021年9月6日閲覧。
- ^ 立花隆 「「田中角栄独占インタビュー」全批判」 『文藝春秋』 59巻3号、126頁、1981年3月。のち立花隆『巨悪vs言論』文藝春秋、1993年、に収録。
- 1 刎頸の交わりとは
- 2 刎頸の交わりの概要
刎頸の交わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:45 UTC 版)
「刎頸の交わり」も参照 『史記』によれば、当初、趙の総大将として、武功によって数々の功績を得た自分に対し、口先だけの働きで手柄を挙げ、位も自身より上回っている相如との仲は、極めて険悪で、だれかれ構わず己の不満を口にした。その噂を耳にした藺相如は、それ以来、病と称し外出をやめた。 それから何日か経ったある日、家臣の薦めで、相如は馬車で散歩に出かけた。その道中で前方に廉頗の姿を見つけた相如があえて道を変え、廉頗の通り過ぎるのをまってから引き返す、といった事件が起こった。その夜、この振る舞いを見た家臣たちは一堂に会し、「相如様の匹夫の様な振る舞い。さらにそれを恥じない相如様の態度には我慢がいきません」といい、辞職を申し出た。すると相如は、「強大なる秦国が何故わが国を滅ぼそうとしないか解るか?それは、私と廉頗将軍がいるからだ。今、廉頗将軍との間に亀裂が生じれば、それこそ秦の思う壺。私があのような行いをするのは国家のためなのだ」と家臣を諭した。 この話はたちまち宮中に広まり、廉頗は上半身裸の姿で相如を訪ね、自分の不徳と愚かさを恥じ、「この愚か者はあなたの大きなお考えを知らず無礼をしてしまった。この荊(いばら)の鞭でこの身をお打ちあれ」と手にしていた鞭を差し出した。相如は、「何を仰せられます、将軍あってこその趙の国です」といった。廉頗は心から心服し、「あなたのためならば、たとえこの頸(くび)を刎ねられても悔いはござらぬ」といい、また相如も「私も将軍のためならば、喜んでこの頸を差し出しましょう」といった。「刎頸の交わり」、「刎頸の友」という言葉はここから生まれた。
※この「刎頸の交わり」の解説は、「廉頗」の解説の一部です。
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刎頸の交わり
出典:『Wiktionary』 (2021/08/15 06:34 UTC 版)
成句
関連語
関連語
出典
- 【白文】
- 既罷歸國、以相如功大、拜為上卿、位在廉頗之右。廉頗曰、「我為趙將、有攻城野戰之大功、而藺相如徒以口舌為勞、而位居我上、且相如素賤人、吾羞、不忍為之下」。宣言曰、「我見相如、必辱之」。
- 相如聞、不肯與會。相如每朝時、常稱病、不欲與廉頗爭列。已而相如出、望見廉頗、相如引車避匿。於是舍人相與諫曰、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也。今君與廉頗同列、廉君宣惡言而君畏匿之、恐懼殊甚、且庸人尚羞之、况於將相乎。臣等不肖、請辭去」。
- 藺相如固止之曰、「公之視廉將軍孰與秦王」。曰「不若也」。相如曰、「夫以秦王之威、而相如廷叱之、辱其羣臣、相如雖駑、獨畏廉將軍哉。顧吾念之、彊秦之所以不敢加兵於趙者、徒以吾兩人在也。今兩虎共鬬、其勢不俱生。吾所以為此者、以先國家之急而後私讎也」。
- 廉頗聞之、肉袒負荊、因賓客至藺相如門謝罪。曰、「鄙賤之人、不知將軍寬之至此也」。卒相與驩、為刎頸之交。
- 【訓読文】
- 既に罷りて帰国するや、相如の功の大なるを以て、拝して上卿と為し、位廉頗の右に在り。廉頗曰く、「我趙の将と為り、攻城野戦の大功有り。而るに藺相如徒だ口舌を以て労と為し、而も位は我が上に居る。且つ相如は素賤の人なり。吾羞ぢて、之が下と為るに忍びず」と。宣言して曰く、「吾相如を見ば、必ず之を辱めむ」と。
- 相如聞き、与に会するを肯ぜず。相如朝する時毎に、常に病と称し、廉頗と列を争ふことを欲せず。已にして相如出でて、廉頗を望見すれば、相如車を引きて避け匿る。是に於いて、舎人相与に諫めて曰く、「臣の親戚を去りて君に事ふる所以の者は、徒だ君の高義を慕へばなり。今、君廉君と列を同じくす。廉君悪言を宣ぶるに、君畏れて之より匿れ、恐懼すること殊に甚だし。且つ庸人すら尚之を羞づ、況むや将相に於いてをや。臣等不肖なり。請ふ辞して去らむ」と。
- 藺相如固く之を止めて曰く、「公の廉将軍を視ること、秦王に孰与(いづれ)ぞ」と。曰く、「若かざるなり」と。相如曰く、「夫れ秦王の威を以てするも、相如之を廷叱し、其の群臣を辱む。相如駑なりと雖も、独り廉将軍を畏れむや。顧みて吾之を念ふに、強秦の敢へて兵を趙に加へざる所以は、徒だ吾が両人の在るを以てなり。今両虎共に闘はば、其の勢ひ倶には生きざらむ。吾の此を為す所以は、国家の急を先」にして、私讐を後にするを以てなり」と。
- 廉頗之を聞き、肉袒して荊を負ひ、賓客に因りて藺相如の門に至り、謝罪して曰く「鄙賤の人、将軍寛なることの此に至れるを知らざるなり」と。卒に相与に驩び、刎頸の交はりを為す。
- 【現代語訳】
- (秦王との会見を終えた趙王と藺相如が)立ち去って帰国すると、(会見を首尾良く終えることができたのは)藺相如の功績が大きいとして、藺相如は上卿に任じられ、その地位は廉頗よりも上位になった。廉頗は言った、「私は趙の将軍として城攻めや野戦で大きな功績を挙げた。しかし相如はただ口先だけによって働き、それでいて私より上の位にいる。それに相如は元々(宦官の近侍という)賤しい身分の人である。私は恥ずかしい。奴の下に立つのは耐えられない」。また、「相如に会ったら、必ずや奴を辱めてやる」と言い触らした。
- 相如はこれを聞き、廉頗と会わないようにした。相如は朝参するたびに、いつも病気と称して廉頗と朝廷での席次を争うことを望まなかった。また、相如が外出した折に廉頗を遠くに見れば、車を引き返して避け隠れた。このため、家来たちは共に相如を諫めて言った。「私共が親戚の元を去って貴方様にお仕えしているのは、ひとえに貴方様の徳の高さをお慕いしたからです。今や貴方様は廉様と同列となりました。廉様が貴方様への悪口を言っているからといって、貴方様は殊更にあの方から隠れ、怖れ畏まっておいでです。凡人でさえ恥ずかしく思います。まして(貴方様のような)将軍・大臣なら尚更ではありませんか。私共は(恥辱を耐え忍ぶことのできない)未熟者ですので、お暇を頂くことをお許し下さい」。
- 藺相如は家来を強く引き止めて言った、「君たちは、廉将軍と秦王とではどちらが上だと思うか」。家来は答えた、「(廉将軍は秦王には)及びません」。相如は言った、「そもそも秦王の威勢を前にしてさえ、私こと相如は秦王を宮廷で叱り付け、その臣下らを辱めた。私は非才であるかもしれないが、だからといって廉将軍ごときを恐れるものか。考えてみるに、強国である秦が趙に出兵しないのは、我々二人が趙にいるからに他ならない。仮に今、二頭の虎(のように優れた人材である我々)が互いに闘うようなことがあれば、双方が共に生き延びるということはあるまい。私がこうしているのは、国家の危急を優先して、私的な恨みを後回しにしているからである」。
- 廉頗はこれを聞き、肩脱ぎして荊の鞭を背負い、賓客を介添えにして藺相如の屋敷の門前に行き、謝罪して言った、「私は性根の賤しい人間でした。将軍がこれほどまでに寛大であるとは存じませんでした」と。とうとう二人は互いに喜び、刎頸の交わりをなした。
刎頚の交わり
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- 【白文】
- 既罷歸國、以相如功大、拜為上卿、位在廉頗之右。廉頗曰、「我為趙將、有攻城野戰之大功、而藺相如徒以口舌為勞、而位居我上、且相如素賤人、吾羞、不忍為之下」。宣言曰、「我見相如、必辱之」。
- 相如聞、不肯與會。相如每朝時、常稱病、不欲與廉頗爭列。已而相如出、望見廉頗、相如引車避匿。於是舍人相與諫曰、「臣所以去親戚而事君者、徒慕君之高義也。今君與廉頗同列、廉君宣惡言而君畏匿之、恐懼殊甚、且庸人尚羞之、况於將相乎。臣等不肖、請辭去」。
- 藺相如固止之曰、「公之視廉將軍孰與秦王」。曰「不若也」。相如曰、「夫以秦王之威、而相如廷叱之、辱其羣臣、相如雖駑、獨畏廉將軍哉。顧吾念之、彊秦之所以不敢加兵於趙者、徒以吾兩人在也。今兩虎共鬬、其勢不俱生。吾所以為此者、以先國家之急而後私讎也」。
- 廉頗聞之、肉袒負荊、因賓客至藺相如門謝罪。曰、「鄙賤之人、不知將軍寬之至此也」。卒相與驩、為刎頸之交。
- 【訓読文】
- 既に罷りて帰国するや、相如の功の大なるを以て、拝して上卿と為し、位廉頗の右に在り。廉頗曰く、「我趙の将と為り、攻城野戦の大功有り。而るに藺相如徒だ口舌を以て労と為し、而も位は我が上に居る。且つ相如は素賤の人なり。吾羞ぢて、之が下と為るに忍びず」と。宣言して曰く、「吾相如を見ば、必ず之を辱めむ」と。
- 相如聞き、与に会するを肯ぜず。相如朝する時毎に、常に病と称し、廉頗と列を争ふことを欲せず。已にして相如出でて、廉頗を望見すれば、相如車を引きて避け匿る。是に於いて、舎人相与に諫めて曰く、「臣の親戚を去りて君に事ふる所以の者は、徒だ君の高義を慕へばなり。今、君廉君と列を同じくす。廉君悪言を宣ぶるに、君畏れて之より匿れ、恐懼すること殊に甚だし。且つ庸人すら尚之を羞づ、況むや将相に於いてをや。臣等不肖なり。請ふ辞して去らむ」と。
- 藺相如固く之を止めて曰く、「公の廉将軍を視ること、秦王に孰与(いづれ)ぞ」と。曰く、「若かざるなり」と。相如曰く、「夫れ秦王の威を以てするも、相如之を廷叱し、其の群臣を辱む。相如駑なりと雖も、独り廉将軍を畏れむや。顧みて吾之を念ふに、強秦の敢へて兵を趙に加へざる所以は、徒だ吾が両人の在るを以てなり。今両虎共に闘はば、其の勢ひ倶には生きざらむ。吾の此を為す所以は、国家の急を先」にして、私讐を後にするを以てなり」と。
- 廉頗之を聞き、肉袒して荊を負ひ、賓客に因りて藺相如の門に至り、謝罪して曰く「鄙賤の人、将軍寛なることの此に至れるを知らざるなり」と。卒に相与に驩び、刎頸の交はりを為す。
- 【現代語訳】
- (秦王との会見を終えた趙王と藺相如が)立ち去って帰国すると、(会見を首尾良く終えることができたのは)藺相如の功績が大きいとして、藺相如は上卿に任じられ、その地位は廉頗よりも上位になった。廉頗は言った、「私は趙の将軍として城攻めや野戦で大きな功績を挙げた。しかし相如はただ口先だけによって働き、それでいて私より上の位にいる。それに相如は元々(宦官の近侍という)賤しい身分の人である。私は恥ずかしい。奴の下に立つのは耐えられない」。また、「相如に会ったら、必ずや奴を辱めてやる」と言い触らした。
- 相如はこれを聞き、廉頗と会わないようにした。相如は朝参するたびに、いつも病気と称して廉頗と朝廷での席次を争うことを望まなかった。また、相如が外出した折に廉頗を遠くに見れば、車を引き返して避け隠れた。このため、家来たちは共に相如を諫めて言った。「私共が親戚の元を去って貴方様にお仕えしているのは、ひとえに貴方様の徳の高さをお慕いしたからです。今や貴方様は廉様と同列となりました。廉様が貴方様への悪口を言っているからといって、貴方様は殊更にあの方から隠れ、怖れ畏まっておいでです。凡人でさえ恥ずかしく思います。まして(貴方様のような)将軍・大臣なら尚更ではありませんか。私共は(恥辱を耐え忍ぶことのできない)未熟者ですので、お暇を頂くことをお許し下さい」。
- 藺相如は家来を強く引き止めて言った、「君たちは、廉将軍と秦王とではどちらが上だと思うか」。家来は答えた、「(廉将軍は秦王には)及びません」。相如は言った、「そもそも秦王の威勢を前にしてさえ、私こと相如は秦王を宮廷で叱り付け、その臣下らを辱めた。私は非才であるかもしれないが、だからといって廉将軍ごときを恐れるものか。考えてみるに、強国である秦が趙に出兵しないのは、我々二人が趙にいるからに他ならない。仮に今、二頭の虎(のように優れた人材である我々)が互いに闘うようなことがあれば、双方が共に生き延びるということはあるまい。私がこうしているのは、国家の危急を優先して、私的な恨みを後回しにしているからである」。
- 廉頗はこれを聞き、肩脱ぎして荊の鞭を背負い、賓客を介添えにして藺相如の屋敷の門前に行き、謝罪して言った、「私は性根の賤しい人間でした。将軍がこれほどまでに寛大であるとは存じませんでした」と。とうとう二人は互いに喜び、刎頸の交わりをなした。
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