再興と2度目の断絶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 00:14 UTC 版)
足利氏満は小山氏を滅ぼしたものの、小山氏の名跡が絶たれることを惜しみ、小山氏と同族の結城基光の次男、泰朝をいれて小山氏を継がせた。この時期、小山氏は鎌倉時代以来続いた名門としての権威は失われ、小山氏は結城氏の影響の下で勢力の回復に努めざるをえなかった。泰朝の子の満泰は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に祖父・結城基光とともに鎌倉公方足利持氏に味方して活躍し、応永29年(1422年)から翌年にかけての小栗満重討伐にも出陣している。この時期に「関東八屋形」という概念が生まれ、その中には小山氏も含まれた。なお、従来小山氏の系譜などによって泰朝と満泰は親子で、満泰は古河公方足利満兼(氏満の子)の偏諱が与えられたと解釈されてきたが、近年になって古河公方で「満」の字を偏諱として授けていたのは満兼の父である足利氏満だけである(満兼は父の偏諱と区別するために「兼」の字を授けていた)とする指摘が行われ、小山泰朝が小山氏継承後に足利満兼の偏諱を受けて満泰と改名したもので両者は同一人物とする新説が出されている。 満泰の子の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437年)の永享の乱では持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して永享12年(1440年)に結城城で幕府に対する兵を挙げたが(結城合戦)、持政は幕府軍に味方して合戦後に持政は下野守に任ぜられるなど自立した。 文安4年(1447年)、持氏の遺子の足利成氏が赦免されて鎌倉公方として下向したが、享徳3年(1454年)、成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し、関東地方は古河公方成氏派と関東管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱が始まった。この乱では持政と成氏は「義兄弟の契り」を結ぶなど、持政は一貫して成氏を支持して活動し、享徳4年(1455年)には上杉派の同国の宇都宮氏と戦っている。 その後、幾度となく幕府からの帰順命令を退けて成氏方として活動してきたが、文明3年(1471年)に幕府からの4度目の帰順命令に応じた。理由は不明だが、子と孫に先立たれた事や一族・重臣の中に幕府方に転じた者がいたこと等が考えられる。その後間もなく持政の活動が途絶えたことから、死去したと見られている。この2度目の断絶を受けて、一族の山川氏から養子の形で家名を存続させた。その養子が小山成長である。
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