再び東京
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1938年(昭和13年)3月、東京の淀橋区諏訪町の貸家に引っ越す。奈良での生活を気に入っていた直哉だが、男の子の教育は東京で受けさせたいと2年前に直吉に学習院の編入試験を受けさせ、妹の実吉英子宅に預けて通わせていた。まず1937年(昭和12年)10月、康子夫人が留女子・田鶴子・貴美子を連れて上京し、直吉と貸家に入居。翌年3月、女学校を卒業した寿々子・万亀子と直哉が合流した。 1937年(昭和12年)9月、改造社から『志賀直哉全集』9巻の刊行が始まり翌年6月完結する。直哉は最終回配本の月報に寄せた「全集完了」の短文で「私は此全集完了を機会に一ト先づ(ひとまず)文士を廃業し、こまこました書きものには縁を断りたいと思ふ」と作家活動からの廃業を宣言する。直哉は支那事変に始まる日本の優位な戦局報道に立腹しており、物を書こうとしても不満が文面に出そうで書けなかった。下落合に仕事用のアパートを借りた直哉は油絵に熱中し、憂鬱な気分から救われる。1939年(昭和14年)前後は胆石に苦しむ。1940年(昭和15年)5月、世田谷区新町に家を買い引っ越す。奈良の家を売って引っ越した新居を直哉は大変気に入り執筆活動を再開。1941年(昭和16年)、直吉との京都・奈良・北陸旅行の経験を綴った「早春の旅」を発表する。 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)2月17日、直哉の「シンガポール陥落」がラジオで朗読放送され『文藝』3月号にも再録される。シンガポールの戦いの勝利を称えた内容で、この頃の直哉は国内の戦争勝利報道に熱狂する世論に同調していたが、その後3年半沈黙する。鈴木貫太郎の「日本は勝っても負けても三等国に下る」という発言を鈴木家に出入りしていた門下の網野菊から聞かされたからとも言われる。このことは戦後に発表した随想「鈴木貫太郎」に記されており、鈴木内閣によって戦争が終わることを期待していたという。また戦時中、広津和郎が近所に住んでいて頻繁に訪問していたが、広津は「話すことは殆んど始終同じことであった。何という見通しのない戦争を始めてしまったものかということ、一刻も早くこの戦争を止めて貰いたいということ」と述べており、沈黙している間に反戦論に転じていたと考えられる。 敗戦が近づくと直哉は外務大臣(当時)の重光葵の意向を汲み、安倍能成、加瀬俊一、田中耕太郎、谷川徹三、富塚清、武者小路実篤、山本有三、和辻哲郎とともに「三年会」を結成する。これは敗戦後の国内の混乱阻止を目的に話し合う会だった。この「三年会」は戦後「同心会」に発展するが、直哉も含めた「同心会」のメンバーは雑誌『世界』の創刊に深く関わることになる。
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