再び「エルサレム」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/13 07:18 UTC 版)
「アエリア・カピトリナ」の記事における「再び「エルサレム」へ」の解説
313年、皇帝コンスタンティヌス1世(在位306年-337年)がキリスト教を公認(ミラノ勅令)。330年にコンスタンティノポリスに遷都、ローマ帝国はビザンツ帝国(東ローマ帝国)へと引き継がれた。そしてアエリア・カピトリナはビザンツ帝国の植民市となった。この町はキリスト教の中心地となるが、この時代もユダヤ人はこの街に立ち入ることを許されなかった。 コンスタンティヌス1世の母太后ヘレナによる320年代の巡礼を契機に、この地はキリスト教の聖地となり「アエリア・カピトリナ」から再び「エルサレム」の名に戻った。 キリスト教徒から背教者と呼ばれる皇帝ユリアヌス(在位361年-363年)はユダヤ人に対しエルサレムへの神殿再建及びユダヤ人の居住を許可した。反キリスト教政策の一環として、キリスト教化され聖墳墓教会等の聖堂が建つエルサレムに、かつてのユダヤ教の神殿を再建することで、ユダヤ人からの賞賛を獲得する企図があったとみられる。着工直後、大火が発生、さらに363年にユリアヌスが死去したことでこの計画は頓挫した。
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