入隊から初陣まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:20 UTC 版)
「エーリヒ・ハルトマン」の記事における「入隊から初陣まで」の解説
1940年10月、18歳で空軍に入隊。教育期間中にBf109Dの機銃による標的射撃訓練で50発中24発を命中させるという優れた射撃技術を見せたが、軍隊の規律にはなじめず、衝動的な性格とされ、昇進が当初遅れがちであった。1942年10月に東部戦線の第52戦闘航空団(JG52)へ配属され、以後、敗戦までほとんどの期間をこの部隊に所属して主にソ連軍との最前線での戦闘に明け暮れた。JG52の新人ハルトマン少尉は、まず第III飛行隊第7中隊のベテラン・パイロット、エドムント・ロスマン曹長(93機撃墜)の2番機に組み入れられた。初出撃は、1942年10月14日で、その際に空中戦も経験している。しかしいざ戦闘が始まると、ハルトマンはパニックに陥ってロスマン機を見失ってしまう。やがてロスマンがハルトマンをサポートするために接近してきたが、彼はそれを敵機の攻撃と誤認し、燃料切れで不時着するまでロスマンの機から必死に逃げ回るという失態を演じ、3日間の飛行禁止、整備作業員の下働きを言い渡された。 配属から一ヶ月ほど経った1942年11月5日、ハルトマンは初撃墜を記録した。機種は「空のコンクリート・トーチカ」と呼ばれたソ連の対地攻撃機、Il-2シュトゥルモヴィークだった。この日、スクランブルで迎撃に上がり、4機編隊の最後尾で索敵していたハルトマンは、真先に敵機を発見したため編隊をリードすることになった。ハルトマンはIl-2の後ろを取るが、相手はあだ名の通り頑丈な機体で、単純に後ろから機銃掃射を浴びせても弾が弾かれてしまう難敵であった。敵機になかなか致命傷を与えられなかったハルトマンは、かつて「シュトゥルモヴィーク・キラー」のアルフレート・グリスラフスキ中尉(133機撃墜)に教えられた「シュトゥルモヴィークの弱点は機首下面のオイル・クーラー」であることを思い出し、敵機の下方に潜り込んでその部分を撃ち抜いて撃墜した。ところがハルトマンは、落ちていく敵機に見とれてその破片を自機に浴び、墜落してしまっている。 2日後、ハルトマンは病気になり4週間入院した。この間に彼は効率的で自分にふさわしい戦闘法を研究する。そして病気が治り実戦に復帰すると、ロスマン曹長のほか、グリスラフスキ中尉、ハンス・ダンマース曹長(113機撃墜)、ヨーゼフ・ツヴェルネマン中尉(126機撃墜)らベテラン・パイロットの2番機を務めながら実戦経験を積み重ね、操縦技術・状況判断・戦闘飛行中の精神のコントロールなど空で生き残るために必須の技量を磨き上げていった。1943年3月にヴァルター・クルピンスキー中尉(197機撃墜)が第7中隊長になると、その2番機となった。そして「観察―決定―攻撃―反復」の戦法を確立していった。
※この「入隊から初陣まで」の解説は、「エーリヒ・ハルトマン」の解説の一部です。
「入隊から初陣まで」を含む「エーリヒ・ハルトマン」の記事については、「エーリヒ・ハルトマン」の概要を参照ください。
- 入隊から初陣までのページへのリンク