光親の二男:親友の系統
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「能見松平家」の記事における「光親の二男:親友の系統」の解説
『寛政譜』では、松平光親の二男・松平親友の系統が「能見の支流」として掲出されている。 松平親友(初名は重友。次郎左衛門、図書助)は、三河国鍋田・広利・歌石・椿井・木小井・沼小井・田和・下河内などの村を知行し、某年に戦死した。親友の子・忠恒(次郎左衛門)は、松平親忠の命を受けて「不忠」の木村新九郎を討って吉平・梨野・杉木の3か村を与えられた。忠恒の長男・忠澄(新助)は家康に仕えて弘治元年(1555年)の尾張国蟹江城攻めに功績があり、忠澄の嫡孫(忠綱の子)・親正(新助)は徳川頼房(水戸藩)に附属されたのち松平頼重(高松藩)の家臣となり、子孫が存続している。 忠澄の二男・親次(清右衛門)は脚の疾患によって三河で蟄居していたが、その子の鈴木重弘(権兵衛。松平を憚り、母方の氏を称した)が徳川秀忠に出仕して右筆となった。ただし、旗本となったこの家はのちに無嗣断絶となっている。 また、忠恒の二男・忠重(助九郎)は鳥居元忠に附属し、天正10年(1582年)に甲斐国黒駒で戦死した。忠重の子の重兼(助左衛門)は、「ゆへありて」武蔵松山に蟄居したのち、結城秀康に仕えて松山姓を称し、その後鳥居忠政に仕えた。
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