像容
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像形は、宝冠をはじめ瓔珞などの豪華な装身具を身に着けた、菩薩のような姿の坐像として表現される。これは古代インドの王族の姿を模したものである。一般に如来は装身具を一切身に着けない薄衣の姿で表現されるが、大日如来は宇宙そのもの存在を装身具の如く身にまとった者として、特に王者の姿で表される。ただしチベット仏教では、宝飾品を身に纏わずに通常の如来の姿で表現されたり、あるいは多面仏として描かれることもある。印相は、金剛界大日如来は智拳印を、胎蔵界大日如来は法界定印を結ぶ。
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像容
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一般的には道教の韋将軍信仰と習合した影響で、唐風の甲冑をまとって剣を持つ若い武将の姿で描かれることが多い。元来はスカンダに由来するため、六面十二臂の少年神で孔雀に乗る。六面の由来は、大自在天(シヴァ)の次男だが六人の乳母に育てられたためといわれる。
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像容
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経典によっては馬頭人身の像容等も説かれ、胎蔵界曼荼羅にも描かれるが、日本での仏像の造形例はほとんどない。立像が多いが、坐像も散見される。頭上に馬頭を戴き、胸前では馬の口を模した「根本馬口印」という印相を示す。剣や斧、棒などを持ち、また、蓮華のつぼみを持つ例もある。剣は八本の腕のある像に多い。 石川県・豊財院の木造立像や、福井県・馬居寺(まごじ)の木造坐像は平安時代の後半にまで遡る作例である。また、福岡・観世音寺の木造立像は高さ5メートルに及ぶ大作で、日本の馬頭観音像の代表例と言える。京都・浄瑠璃寺の木造立像は、鎌倉時代の南都仏師らの手になる作例である。
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像容
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インドでは貴人の姿で表現されたが、日本では甲冑を着けて武器を持ち、邪鬼を踏みつける姿をとる。像は須弥壇の四隅にそれぞれ配置される。四天王像としては、東大寺の戒壇院のものが有名である。
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像容
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原語の「サラスヴァティー」は、インドで最も古い聖典『リグ・ヴェーダ』に現れる聖なる河とその化身の名である。水の女神であるが、次第に芸術・学問などの知を司る女神と見做されるようになった。ヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻である(元々はヴィシュヌの妻であったという説もある)。 他方で弁才天は、音楽神、福徳神、学芸神の性格に加え、戦勝神の性格も持つものがあり、像容は、2臂像と8臂像の2つに大別される。 2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、『大日経』では、妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える2臂像は、後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である。 8臂像は、5世紀の中国の五胡十六国時代に中インドから新疆へ赴いた曇無讖が、仏教経典スヴァルナ・プラバーサ・スートラを漢訳した『金光明最勝王経』「大弁才天女品(ほん)」の所説によるものである。8本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれるが、その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は鎮護国家の戦神としての姿が強調されている。
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像容
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絵画・彫刻において、ヴィルーパは様々な姿勢(説法印など)、肌の色で表現される。また、チベット仏教においてヴィルーパは、サキャ派にとどまらず他の宗派でも崇敬されるため、彼を扱った芸術はチベット全域で見られる。
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像容
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『簠簋内伝』では黄牛の面を頭につけ、斧と羂索を持った忿怒相としている。 一面四臂で人びとを手づかみでいたぶったり、踏みつけたりしている図もあるが、単に左手に宝珠をいただくだけの簡素な立像もあって、多種多様である。 石像は必ずしも多くないが、地域によっては馬頭観音との対比から牛の神として信仰されているところもある。 作像例 松尾神社(京都府木津川市) - 四面二臂の半跏象。牛頭を頂いた忿怒相で甲冑姿をしている。 中仙寺(大阪府堺市) - 元は八坂神社の保有だったが神仏分離にともない移動された。三面四臂の忿怒相で牛頭を頂いた木造座像。 興禅寺(愛知県津島市) - 三面十二臀で牛頭を頂く木造倚像。
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像容
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経典には様々な姿が説かれるが、いずれも多臂(多くの腕)を持ち、シカの毛皮を身に纏うのが特徴である。この「野獣の毛皮を纏う」という点でヒンドゥー教の最高神の1柱シヴァ、特にその山岳神としての面と関係があるという説もある。また、シカとの関係から春日大社第一の神であるタケミカヅチの本地仏とされる。 この観音像の作例はインドで多く見出される。中国には乏しく、日本でもいくつかの有名な像があるとは言え、作例はあまり多くはない。よく知られているものの一つは、インドネシアのジャワの王朝シンガサリ朝のヴィシュヌワルダナ王の像がこの姿の仏像として刻まれている。
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 16:05 UTC 版)
インドにおける作例は顕著なものは無い。雑密時代である初期唐代以降の中国で盛んに信仰され、日本でも数多く造像された。 通例、頭上の正面側に柔和相(3面)、左側(向かって右)に憤怒相(3面)、右側(向かって左)に白牙上出相(3面)、背面に大笑相(1面)、頭頂に仏相を表す。 日本では、奈良時代から十一面観音の造像・信仰は盛んに行われ、法隆寺金堂壁画(1949年の火災で焼損)中の十一面観音像が最古の作例と見なされる。奈良時代の作例としては他に奈良・聖林寺像(国宝。大神神社の元神宮寺の大御輪寺伝来)京都・観音寺像(国宝)、奈良・薬師寺像(重文)などがある。東大寺二月堂の本尊も十一面観音であるが、古来厳重な秘仏であるため、その像容は明らかでない。同寺の年中行事である「お水取り」は、十一面観音に罪障の懺悔をする行事(十一面悔過法要)である。 十一面観音はその深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされる。多くの十一面観音像は頭部正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を頂き、頭上には仏面(究極的理想としての悟りの表情)、菩薩面(穏やかな佇まいで善良な衆生に楽を施す、慈悲の表情。慈悲面とも)、瞋怒面(しんぬめん。眉を吊り上げ口を「へ」の字に結び、邪悪な衆生を戒めて仏道へと向かわせる、憤怒の表情。忿怒面(ふんぬめん)とも)、狗牙上出面(くげじょうしゅつめん。結んだ唇の間から牙を現し、行いの浄らかな衆生を励まして仏道を勧める、讃嘆の表情。牙上出面あるいは白牙上出面とも)、大笑面(だいしょうめん。悪への怒りが極まるあまり、悪にまみれた衆生の悪行を大口を開けて笑い滅する、笑顔。暴悪大笑面とも)など、各々に複雑な表情を乗せ、右手を垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている姿であることが多い。この像容は玄奘訳の「十一面神咒心経」に基づくものである。 「十一面神咒心経」によれば、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つこととされている。ただし、彫像の場合は右手の数珠が省略ないし亡失したものが多い。一方、真言宗豊山派総本山長谷寺本尊の十一面観音像は、左手には通常通り蓮華を生けた花瓶を持っているが、右手には大錫杖を持ち、岩の上に立っているのが最大の特徴で、豊山派の多くの寺院に安置された十一面観音像はこの像容となっているため、通常の十一面観音像と区別して「長谷寺式十一面観音」と呼ばれる。 空海によって伝えられた正純密教(真言宗)では、不空の訳経に基づく四臂像も造像されたが、日本における作例は二臂像が圧倒的に多い。 聖林寺像(奈良時代、国宝) 法華寺像(平安時代、国宝) 向源寺(渡岸寺)像(平安時代、国宝) 室生寺像(平安時代、国宝) 新薬師寺像(奈良国立博物館寄託)(平安時代、重要文化財) 十一面観音像 唐時代 サックラー・ギャラリー
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:39 UTC 版)
坐像、立像ともにあり、実際に千本前後の手を表現した仏像もいくつか現存する。奈良市の唐招提寺金堂像(立像)、大阪府藤井寺市の葛井寺本尊像(坐像)、京都府京田辺市の寿宝寺本尊像(立像)などが知られている。像高5mを超える唐招提寺像は大手が42本で、大手の隙間に911本の小手があり、全部で953本現存する。葛井寺像は、大手が40本(宝鉢手をつくらない)、小手は1,001本で合計1041本ある。小手は正面から見ると像本体から直接生えているように見えるが、実は、像背後に立てた2本の支柱にびっしりと小手が取り付けられている。葛井寺像の大手・小手の掌には、絵具で「眼」が描かれていたことがわずかに残る痕跡から判明し、文字通り「千手千眼」を表したものであった。 一般的な千手観音像は十一面四十二臂が多い。和歌山県の道成寺本尊像(国宝)と補陀洛山寺本尊像(重文)は四十四臂を持つ。敦煌で発見された大英博物館所蔵の千手観音画とギメ博物館所蔵の千手観音立像も四十四臂を持つ。四十二臂の意味については、胸前で合掌する2本の手を除いた40本の手が、それぞれ25の世界を救うものであり、「25×40=1,000」であると説明されている。ここで言う「25の世界」とは、仏教で言う「三界二十五有(う)」のことで、天上界から地獄まで25の世界があるという考えである(欲界に十四有、色界に七有、無色界に四有があるとされる)。俗に言う「有頂天」とは本来、二十五の有の頂点にある天上界のことを指す。 京都三十三間堂の本尊(坐像)は、鎌倉時代の仏師湛慶の代表作であるとともに、十一面四十二臂像の典型作である。42本の手の内2本は胸前で合掌し、他の2本は腹前で組み合わせて宝鉢(ほうはつ)を持つ(これを宝鉢手という)。他の38本の脇手にはそれぞれ法輪、錫杖(しゃくじょう)、水瓶(すいびょう)など様々な持物(じもつ)を持つ。38手に何を持つかについては経典に述べられているが(後出)、彫像の場合は長年の間に持物が紛失したり、後世の補作に替わったりしている場合が多い。 ベトナム、ブッタップ寺 上海、龍華寺 京都、法性寺 京都、三十三間堂(1,001体のうち) 中国安徽省九華山 中国湖南省潙山
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 09:28 UTC 版)
一般には剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとう。装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度。左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い(この場合、伝統的に彫像であることが多く画像はまれである)。 しかし密教では胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊として、髪を高く結い上げ装身具を身に着けた通常の菩薩形に表され、右手は右胸の前で日輪を持ち、左手は左腰に当てて幢幡を乗せた蓮華を持つ。
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:36 UTC 版)
平面五角形の反花座(かえりばなざ。ハスの花を伏せたような形の台座)に直立する。通常の仏像に比べて著しく痩身で頭部が小さく、8頭身に近い。右腕は肘でほぼ直角に曲げ、前膊(下腕)を観者の方へ向けて水平に突き出し、掌を上へ向ける(持物はない)。左手は垂下し、肘を前方に軽くに曲げて手の甲を観者の方へ向け、水瓶(すいびょう)を持つ。 上半身には僧祇支、下半身には裳(巻きスカート状の衣服)を着け、天衣(てんね。仏像や天人像が身につけている薄く細長い布のこと)をまとう。天衣は大腿部正面でX字状に交差し、両腕にかかり、両体側に垂下している。 頭髪は髻(もとどり)を結い、両肩に長く垂れ下がっている。宝冠、首飾、臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)などの装身具を付け、これらは銅製透かし彫りの別製とする。光背は宝珠形の頭光(ずこう)で、中央部に八葉蓮華を表し、その周囲には同心円状の文様帯があり、その外側の周縁部には火焔文様を表す。光背支柱は竹を模した木製で、光背基部には山岳形の装飾がある。台座は前述の五角形の反花座の下に2段の框(かまち)がある。
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 19:04 UTC 版)
像容は、立像・坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やっこ)を持つのが通例である。ただし、日本での造像例を見ると、奈良・薬師寺金堂像、奈良・唐招提寺金堂像のように、古代の像では薬壷を持たないものも多い。これは、不空訳「薬師如来念誦儀軌」の伝来以降に薬壷を持つ像が造られるようになったと考えられている。単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。また、眷属として十二神将像をともに安置することが多い。薬師如来の光背には、七体または六体、もしくは七体の同じ大きさの像容がある。これは七仏薬師といって薬師如来とその化身仏とされる。 薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。 国分寺のほとんどは現在は薬師如来を本尊としている。 薬師三尊像(薬師寺) 薬師座像 行基・作(新薬師寺) 薬師如来(『図像抄』) 薬師如来(今山、福岡市西区今宿)
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 16:29 UTC 版)
元来二臂の女神像であるが、男神像としても造られるようになった。三面六臂または三面八臂で月と猪に乗る姿などもある。 摩利支天 女神(ギメ東洋美術館) 猪に乗る摩利支天 男像 (法雲寺) 中国、18世紀 (ブルックリン美術館) 摩利支天(茅野市金沢・権現の森)
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 08:49 UTC 版)
妙見信仰には星宿信仰に道教、密教、陰陽道などの要素が混交しており、像容も一定していない。忿怒形や童子形、他に甲冑を着けた武将形で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物で北方の守り神)に乗るもの、唐服を着て笏を持った陰陽道系の像など、さまざまな形がある。 日本で重要文化財に指定されている妙見菩薩の彫像は、読売新聞社所有(よみうりランド内聖地公園保管)の1体のみである。この像は、正安3年(1301年)の銘があり、もと伊勢神宮外宮の妙見堂にあったものとされる。しかし、この像は甲冑を着け、右手に剣を持ち、頭髪を美豆良(みずら)に結った特殊な像容を示し、所伝通り妙見菩薩と呼ぶべきかどうか若干疑問の残るものである。 二臂の妙見菩薩 四臂の妙見菩薩 能勢妙見菩薩 亀に乗る妙見菩薩(『仏像図彙』より) 童子形妙見菩薩
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:30 UTC 版)
『陀羅尼集経・第九』によると、 一身四手、左辺の上手は三叉を把る。下手は棒を把る。右辺の上手は掌に一輪を拈し、下手は羂索を把る。其の身は青色、面に大いに口を張り、狗牙は上出し、眼は赤きこと血の如く、面に三眼あり、頂に髑髏を戴き、頭髪は竪に聳え、火焔の色の如し。頂に大蛇を纏い、両膊に各、倒に懸ける一龍有り。竜頭は相向う。其の像、腰に二大赤蛇を纏う。両脚腕上に亦大赤蛇を纏い、把る所の棒状も亦大蛇を纏う。虎皮を胯に縵す。髑髏の瓔珞、像の両脚下に各、一鬼を安ず。 其の像の左右両辺に各、当に一青衣の童子作るべし。髪髻両角、手に香炉を執り、其の像の右辺に、二薬叉を作る。一は赤、一は黄、刀を執り索を執る。其の像の左辺に二薬叉を作る。一は白、一は黒。銷を執り、叉を執る。形像並びに皆甚だ怖畏すべし、云々 とある。要約すると 三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う 姿で現されるが、一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係しているとされる。 以上のような姿は、密教の明王像、特に軍荼利明王に通ずるものがある。 日本では各地に石造の庚申塔が多数遺り、そこには「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像と共に青面金剛像が表されている例が多い。木造の古例としては、奈良・東大寺の木造青面金剛立像(重要文化財)が著名である。 江戸時代の掛軸画。青面金剛を中央に、日月、二猿二鶏を従えている。 こちらは日月、二童子、四夜叉、二鶏、それに「見ざる、言わざる、聞かざる」のいわゆる三猿を配置。 江戸時代の掛軸画。上から:日月、青面金剛、二童子、二鶏、青面金剛に従う四夜叉、と猿 青面金剛をかたどる庚申塔。千葉県習志野市。 青面金剛供養塔 青面金剛を祀る庚申堂の例。岡山県・木山寺。 青面金剛を祀る庚申塔 新堀庚申塔(埼玉県川口市新郷地区) 峯辰井川庚申塔(埼玉県川口市峯地区) 東本郷庚申塔(埼玉県川口市東本郷地区) 遊馬庚申塔(埼玉県草加市遊馬町) 正源寺庚申塔(埼玉県川口市新郷地区) 庚申塔(埼玉県草加市苗塚町) 苗塚庚申堂と庚申塔庚申塔(埼玉県草加市苗塚町 庚申塔(岐阜県加茂郡八百津町)
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 08:56 UTC 版)
密教の明王像は多面多臂(複数の顔、腕も複対)の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩や因縁を断ち切る、片側中央の刃だけが一際長い三鈷杵)と羂索(けんさく/けんじゃく。悪を縛り上げ、また人々を縛り吊り上げてでも煩悩から救い出すための投げ縄のようなもの。一方の端には環、他方の端には独鈷杵の半分が付く)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれ、後述のように日蓮は四臂の不動明王を感得しているが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。 また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在である。以下に典型的な像の形を示す。 東寺講堂像(坐像) - 空海(弘法大師)の創意に基づくという意味で「弘法大師様(よう)」と呼ばれる像容。両目を見開き、上唇で下唇を噛み、両牙を下方に出すのが特徴。後世多く作られた、天地眼(片目を半眼にする)・牙上下出(牙を片方は上、もう片方は下に出す)の不動明王とは図像的に異なっている。 浪切不動(立像) - 高野山南院に伝わる、空海が唐から将来したと伝える像である。頭部を右下方に向け、右目を見開き、左目をすがめ、両牙を下に出す。空海が唐からの帰途、荒波に襲われた際にこの不動に祈ったところ波が去ったという伝説がある。 黄不動(立像) - 園城寺に伝わる画像で、円珍感得像と伝える。両目を見開き、上唇で下唇を噛み、両牙を上方に出す。上半身裸形、体躯は筋骨隆々として肥満し、虚空を踏んで立つ。 インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。 また、日蓮宗系各派の本尊(いわゆる十界曼荼羅)にも不動明王が書かれている為、日蓮宗でも不動明王を奉安する寺院が存在する。愛染明王と同様、空海によって伝えられた密教の尊格であることから、日蓮以来代々種子で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/23 00:35 UTC 版)
本地仏である勝軍地蔵(将軍地蔵)の姿で描かれ、甲冑姿の地蔵菩薩が馬に乗る。
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像容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 07:18 UTC 版)
烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が一面六臂であったり三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い。 五大明王の中の一尊としての造像遺例には、奈良の宝山寺の木像が見られる。江戸時代、元禄14年(1701年)に、湛海により造像されたものである。
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