但馬
名字 | 読み方 |
但馬 | たじま |
但馬
姓 | 読み方 |
---|---|
但馬 | たじま |
但馬 | ただうま |
但馬 | ただま |
但馬 | たま |
但馬 | たんば |
但馬 | たんま |
但馬 | つしま |
但馬
但馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 01:49 UTC 版)
天正13年(1585年)、但馬出石城(兵庫県豊岡市)にあった豊臣秀長が紀州攻めの功で紀伊国・和泉国の2か国をあたえられ、紀伊和歌山城(和歌山県和歌山市)に移ったのにともない、但馬国は4分されて、前野長康が出石城7万5,000石、別所重宗・別所吉治父子が但馬八木城(兵庫県養父市)1万2,000石、赤松広秀が竹田城(兵庫県朝来市)2万2,000石、明石与四郎則実が城崎城(豊岡城、豊岡市)2万2,000石をそれぞれあたえられた。なお、別所重宗の養子吉治は、当初信長に従いながらのちに離反した播磨三木城(兵庫県三木市)の城主別所長治の実子だという説がある。 文禄4年(1595年)、秀次事件に連坐して秀次の家老であった出石の前野長康、家臣として仕えた豊岡の明石則実がともに切腹した。そのため、同年、小出吉政が播磨龍野より但馬出石城5万3,200石に入り、慶長2年(1597年)には北政所の従弟にあたる杉原長房が豊岡2万石の城主として但馬に入部した。
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但馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 20:58 UTC 版)
兵庫県の南部(大阪湾側)の神戸市と、北部日本海側の豊岡市を結ぶ快速列車として1952年に運転を開始した。京都駅や大阪駅から北近畿方面に準急列車が運転されるようになると、1960年に準急列車化された。「但馬」は準急化にあわせて蒸気機関車牽引の客車から気動車の運転に変わり、神戸駅 - 豊岡駅間では2時間台で結ぶようになった。1965年に同一経路で運転されていた準急「ゆあみ」を統合することにより、1966年には4往復で運転されるようになった。この本数のまま、1966年に急行列車化されるが、1972年に特急「はまかぜ」の運転開始にあわせて、2往復にグリーン車が連結されるようになるが、一部列車の一部区間で普通列車として運転されるようになったり、大阪駅 - 姫路駅間では姫新線に直通する急行「みまさか」と併結される列車も登場するようになった。 利用客の減少や山陽本線内での新快速の増発などによって1989年3月11日には姫路駅 - 豊岡駅・鳥取駅間の運転に短縮され(この時にグリーン車の連結は取り止め)、1996年3月15日に廃止された。
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但馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:39 UTC 版)
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但馬(たじま)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:48 UTC 版)
西部の広い地域が但馬と呼ばれる。近鉄田原本線の但馬駅周辺が住所の上では但馬となるが、それよりも飛鳥川・曽我川に近い地域は上但馬とよばれ、住所も上但馬となる。古くから飛鳥川や曽我川の氾濫が多く、治水対策がたびたび行われてきた歴史がある。野球グローブなどの皮産業で有名な地区である。
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但馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:09 UTC 版)
東台寺学園中等部2年5組級長。ずんぐりと太った体に丸メガネが特徴。加納と同級の落第生で、かつては脇坂とも同級生だった。穏やかな性格で、鉄兵の戊組での最初の友人となる。フリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を愛読しているため、仲間から「ニーチェ」と呼ばれている。
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「但馬」の例文・使い方・用例・文例
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