会議開催の背景
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「五大ファミリー」、「コミッション (マフィア)」、および「コーサ・ノストラ」も参照 第2次世界大戦以前、アメリカの暗黒街ではラッキー・ルチアーノが頂点(capo dei capi、ボスの中のボス)に立ち、彼の呼びかけにより、ニューヨーク五大ファミリーやコミッション(全国委員会)、またイタリア系に依らないアメリカ各都市のギャング勢力と連携しての犯罪組織の全米ネットワークが構築されていった。しかし、1936年6月18日にルチアーノは30年から50年の州刑務所への服役を宣告された。大戦後の1946年1月3日、トマス・E・デューイは戦時協力の見返りとして、イタリアへの強制送還を条件としてルチアーノに恩赦を出した。2月10日、ルチアーノが乗った船はブルックリン港からイタリアに向けて出港した(以降ルチアーノが再びアメリカに戻れる日はこなかった)。船は2月28日にナポリに到着し、ルチアーノは記者団に対しておそらくシチリアに住むことになると語った。 1936年にルチアーノが服役してから、ルチアーノ・ファミリーは副ボス(アンダーボス)のヴィト・ジェノヴェーゼが代理のボスとなったが、まもなく1934年のフェルディナンド・ボッチア殺害の一件でジェノヴェーゼも当局の手配を受け、イタリアに逃亡せざるを得なくなってしまった。このため、当局の捜査網から漏れていたフランク・コステロが代理ボスに昇格した。ファミリーの実権はルチアーノが握り刑務所内から指示を出していたが、コステロ個人も政界や司法界など多岐にわたる人脈を持ち、連邦捜査局 (FBI)初代局長ジョン・エドガー・フーヴァーとも古くから交流があった。その人脈を他のマフィアから頼られることもあり、コステロは「暗黒街の首相(The Prime Minister of the Underworld)」と呼ばれるに至った。デューイのルチアーノに対する恩赦にも関わっており、1946年のルチアーノの国外追放後は、コステロが正式にファミリーのボスとなり、「ボスの中のボス(capo dei capi)」となった。 逃亡の身であったジェノヴェーゼは大戦中にアメリカに連行され、1945年6月2日に改めてボッチア殺害の件で起訴された。しかし、有力な検察証人が殺害されたことで証拠不十分となり、1946年に釈放された。コステロはジェノヴェーゼの復帰を迎え入れ、いくらかの金銭や地位の補償を行ったが、ボスの座はおろか、副ボスの地位も与えなかった。ここからコステロとジェノヴェーゼの確執が始まるが、当初、ジェノヴェーゼはコステロの命令に従っていた。 1950年代からコステロとジェノヴェーゼの権力闘争は激しくなり、1951年、自前の戦力に乏しいコステロは掟に反するボス殺しが疑われていた盟友のアルバート・アナスタシアのマンガーノ・ファミリーのボス就任を積極的に後援し、ジェノヴェーゼを牽制した。一方で、同年にコステロの右腕で副ボスであったウィリー・モレッティが暗殺され、その後任としてジェノヴェーゼが副ボスに復帰した。また、ジェノヴェーゼはボスとなったばかりのルッケーゼ・ファミリーのトーマス・ルッケーゼと手を組んだ。1956年には組織重鎮で2人の緩衝役であったジョー・アドニスが国外追放され、他の古参幹部も一線を退くなど、2人の争いを止められる者がいなくなっていた。 1957年5月2日、ジェノヴェーゼはついに行動を起こし、配下のヴィンセント・ジガンテに命じてコステロを襲撃させた 。暗殺は失敗し、コステロは軽傷を負っただけで済んだが引退を決意させた。ジェノヴェーゼの残る懸念はアナスタシアであり、実際、アナスタシアはジェノヴェーゼのボス殺し未遂を批判し、コミッションなどにおいてジェノヴェーゼのボス就任防止に奔走した。しかし、6月17日にマンガーノ・ファミリーの副ボス・フランク・スカリーチェが暗殺され、アナスタシアに不満を持つカルロ・ガンビーノが副ボスに昇格した。そして10月25日、アナスタシアは理髪店にいたところをヒットマンに襲われ、銃撃により即死した。この暗殺実行犯は捕まっていないが、事件の首謀者はジェノヴェーゼとガンビーノとされている。 アナスタシア暗殺直後にコステロは正式に引退を表明し、ファミリーの実権の一切をジェノベーゼに譲ることを言明した。由緒あるルチアーノ・ファミリーを支配したジェノベーゼは、自らの地位を確実なものとさせるため、全国のコーサ・ノストラを集めたコミッションを開催することを企図した。当初、会合はシカゴで開かれる予定であったが、シカゴマフィアの有力者であるシカゴ・アウトフィットのボス、サム・ジアンカーナが反対したため、ニューヨーク州バッファローのボスで、コミッション・メンバーでもあるステファノ・マガディーノに候補地選択が依頼された。マガディーノは、ペンシルベニア北東部ファミリー(後のブファリーノ・ファミリー)のボスであるジョゼフ・バーバラと、その副ボスであるラッセル・ブファリーノに会議の監督・指揮を依頼した。
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