こう‐ゆう〔カウイウ〕【交遊】
遊び
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遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。基本的には、生命活動を維持するのに直接必要な食事・睡眠等や、自ら望んで行われない労働は含まない。類義語として遊戯(ゆうぎ)がある(詳細後述)。
注釈
- ^ 『角川 新字源』では、第2義に「花柳界に遊ぶ」
- ^ 和訳版に(Huizinga 1963)がある。
- ^ 和訳版に(Caillois 1971)がある。
出典
- ^ a b c 福永光司「中国宗教思想史」『中国宗教思想 1』岩波書店〈岩波講座 東洋思想〉第13巻1990年、ISBN 4-00-010333-4 pp.98-107.
- ^ a b c d e f g h 『広辞苑』
- ^ a b 『世界大百科事典』 第二版
- ^ 宝賀寿男「第六章 高志之利波臣の起源」『越と出雲の夜明け』法令出版、2008年。
- ^ a b c d e 『角川 新字源』
- ^ a b c d e f g h i j k l 『大辞泉』
- ^ a b c d e f g h i 『大辞林』 第二版
- ^ a b c d e f 森下2000, p. 172.
- ^ a b c ホイジンガ(1973)pp.11-14
- ^ a b c d カイヨワ(1990)
- ^ a b c d e f g h 森下2000, p. 173.
- ^ a b c d 森下2000, p. 174.
- ^ a b 無籐隆 二宮克美、子安増生(編)「遊び」『キーワードコレクション 発達心理学』改訂版第3刷 新曜社 2005 ISBN 4788508923 pp.124-127.
- ^ ピアジェ 1976『遊びの心理学』黎明書房。
- ^ 河崎道夫編著1983『子どもの遊びと発達』ひとなる書房。
- ^ a b 中村哲之, 藤田和生, 瀧本彩加, 別役透, 渡辺創太, 森本陽, 溝川藍, 高岡祥子, 鹿子木康弘「)「研究開発コロキアム」報告〔要約版〕:〔グローバルCOE〕採択:遊び行動と認知機能の関係性についての比較認知科学的・比較認知発達科学的研究」『研究開発コロキアム : 平成20年度 成果報告書』、京都大学大学院教育学研究科、2009年3月、22-23頁、NAID 120003238692、2021年11月22日閲覧。
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- ^ 加藤由子 (2009年10月5日). “平成21年度横浜市立小学校長全体研修会 講演「動物学からみたヒトの子」 加藤由子先生” (PDF). Y・Y NET(公式ウェブサイト). 横浜市教育委員会. 2013年1月12日閲覧。
- ^ スー・ドナルドソン, ウィル・キムリッカ, 青木人志, 成廣孝『人と動物の政治共同体 : 「動物の権利」の政治理論』尚学社、2016年、168頁。ISBN 9784860311261。 NCID BB22813976。
- ^ a b c 早木仁成 2005, p. 52.
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- ^ a b 早木仁成 2005, p. 49.
交遊
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太田南畝 文化元年(1804年)9月10日から文化2年(1805年)10月10日まで長崎奉行所支配勘定役。文庵を通じて逐一兆新の消息を聞き、嫁お冬の母乳の出が悪いことを相談して処方を受けた。自身も道中室積から病気に罹っていたが、『源平盛衰記』で平重盛が宋医の治療を断った例を引いて「官吏之身として異国之薬服すべき事」はできないと処方を断った。文化2年(1805年)2月2日初めて対面した。 竜門雷大和尚 聖福寺第9世。文化元年(1804年)10月の主方丈就任に際し、8月7日賀章を贈られた。 市河米庵 書家。文化元年(1804年)5月2日から8月16日まで長崎に滞在した際、持病の治療を受け、以降聖福寺・崇福寺でしばしば筆談した。兆新の子世鎏と同年齢だったため、厚遇を受けた。 成瀬正定 長崎奉行。文化元年(1804年)大坂仏照寺に先祖成瀬一斎の墓碑を建立する際、林述斎に撰文、兆新に揮毫を依頼した。 秦星池 書家。長崎奉行土屋氏の前で米庵に中国人の書を学ぶよう勧められ、兆新に師事したという。星池の号を受け継ぎ、兆新書崔瑗(中国語版)『座右銘』を刊行した。 中村嘉右衛門 唐人屋敷出入りの薬種商。仕事関係でしばしば家を訪問された。文化元年(1804年)森狙仙筆猿図に詩題を依頼した。 古賀穀堂 『穀堂遺稿抄』巻一に「寄清医胡兆新」と題した漢詩がある。 伊沢蘭軒も兆新と交流したとする資料があるが、長崎に来たのは文化3年(1806年)であり、誤伝である。
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交遊
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王槩は若くして詩画の才をあらわし、多くの年長の文人たちに親しんだ。人物を見込んでこれを女婿とした方文の詩集など関連資料から往来のあった人びとの名前をあげれば、まずあげられるのは在野の人びとであって、程邃(穆倩)・張怡(瑶星)・杜濬(于皇)・劉然(藜先)・文士英(及先)・李漁(笠翁)・陳淏(扶揺)・湯燕生(巌夫)・潘江(蜀藻)・龔賢(半千)・王楫(汾仲)・鄭簠(谷口)・黄虞稷(兪邰)・方熊(望子)・呉晋(介茲)・汪沈琇(西京)・馬孝思(永公)・程澎(飛濤)・大健(蒲庵)・元祚(木文)らはみな遺民文人、布衣、あるいは僧などであった。汪楫(舟次。のち琉球国王冊封使)・周在浚(雪客)とは彼らが官職につく前からの交際であり、交遊のあった銭陸燦(湘霊)は挙人身分を取り消された在野の学者であった。 王輔・王槩父子は杭州から南京に転居してきた李漁、陳淏と親しく、李漁らが杭州にもどったあとも、その関係はつづいた。『西湖佳話』(康煕12年序刊)巻頭の精巧な多色刷りの図版には陳淏とともに王槩兄弟が名をとどめ、『芥子園画伝』初集(康煕18年、李漁序)は李陳王三家の協同によって制作されたことが伺われる。『西湖佳話』を刊行した「金陵王衙」とは、王槩一家の経営する書肆である可能性が高い。 一方で王槩は、周亮工(櫟園)・宋琬(茘裳)・施閏章(愚山)・曹溶(秋岳)・王又旦(幼華)・曹寅(楝亭)ら、清朝の現職高官や退職した高官の知遇をうけた。江南士人のあいだに声望のあった周亮工は『印人伝』においてまだ若い王槩の人物と画・篆刻を推賞している。康煕6年(1667年)、南京にきた宋琬が諸士と秦淮に集った際、王槩は扇頭画を描いて贈り(『写心集』巻3、宋琬「答王安節」)、康煕8年(1669年)にも宋琬から姜廷幹(綺季)・周金然(広居)らとともに招かれて秦淮河に遊んだ(周金然『娯暉草』巻1)。康煕11年(1672年)冬、四川按察司使として赴任する宋琬が南京を通過した際、龔賢らとともに送別、王槩は「蜀道易」と題した画と詩を贈った(『清画家詩史』乙上)。康煕22年(1683)秋、曹溶が南京の懶園に諸名士を招いて宴集した際、これに参加(『天淵閣後集』巻8)。康煕28年(1689年)秋、孔尚任(東塘)が南京冶城道院でひらいた宴には王蓍・王臬とともに参加している(『湖海集』巻7)。康煕36年(1697年)、曹寅(『紅楼夢』の作者曹雪芹の祖父にあたる)にもとめられて王蓍とともに「楝亭夜話図」に題し(『紅豆樹館書画記』巻4)、曹寅にも「戯題王安節画」2首(『楝亭詩鈔』巻4)がある。
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交遊
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米山人は画業が評判になるとともに盛んに文人達との交流を深めた。親交の深かった木村蒹葭堂の『蒹葭堂日記』に米山人の名前が数十回も出てくる。当時、蒹葭堂を中心に文人のネットワークが存在しており、彼を介して多くの文人と知己になったと思われる。米山人の居宅「正帆」には多くの文人が訪問している。田能村竹田・頼山陽・浦上玉堂・春琴・篠崎小竹・僧でありながら希代の蒐集家であった如意道人など。また隠棲先の源八渡しにも中西石焦・十時梅厓・海量上人・森川竹窓・鼎春嶽・藤堂高基・秦宗春など多数の名前が見られ文人のサロンとなっていたようだ。
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