二子塚古墳
名称: | 二子塚古墳 |
ふりがな: | ふたごづかこふん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 広島県 |
市区町村: | 福山市駅家町 |
管理団体: | 福山市 |
指定年月日: | 2009.07.23(平成21.07.23) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 二子塚古墳は広島県の東部、備後地域に所在する標高50m前後の低丘陵上に所在する前方後円墳である。丘陵南裾には古代山陽道が通る、東西交通の要衝に位置している。発掘調査の結果、墳丘長68m、墳丘の周辺には幅1.6~4m、深さ1.8m程度の周溝が全周し、それを含めた総長は73.4mになり、備後地域を代表する大規模前方後円墳であることが明らかとなった。 埋葬施設は前方部と後円部に横穴式石室が1基ずつある。後円部のものは両袖式で、全長14.9mと吉備有数の規模を誇る。石棺は播磨の竜山石製の組み合わせ式石棺であった。副葬品は須恵器、鉄製武器、馬具とともに、大刀に伴う金銅製双龍環頭柄頭(そうりゅうかんとうつかがしら)は珍しい意匠で注目される。副葬品の内容から古墳の築造は、6世紀末から7世紀初頭頃と考えられる。 備前・備中地域においては、古墳時代前・中期に巨大な前方後円墳が築造されたのに対し、備後地域ではこの古墳が突如として出現した。玄室内の石棺は地元で採れる浪形石(なみがたいし)ではなく畿内地域の前方後円墳などに採用された竜山石を用い、石室構造や出土遺物も畿内地域と関係があったことを示す。 このように、二子塚古墳は、7世紀前後のヤマト政権と吉備との政治状況を知ることができる点で、きわめて重要な古墳である。 |
二子塚古墳
名称: | 二子塚古墳 |
ふりがな: | ふたごづかこふん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 大阪府 |
市区町村: | 南河内郡太子町 |
管理団体: | 太子町(昭32・3・26) |
指定年月日: | 1956.11.28(昭和31.11.28) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 大字山田にあり、推古天皇陵の東方約200メートルの傾斜地をなす段丘上に位するもので、二基の方形の墳丘が西南方から東北方にわたって並列し、あたかも主軸の長さ約60メートルの双方墳の形式をなしている。それぞれの墳丘に口を東南に開く横穴式石室があり、いずれも石棺が存する。石室は長方状の箱形を呈するもので、東北方に存するものは、長さ約5メートル、幅約1.80メートル、高さ約1.60メートル、西南方のものは長さ約5.30メートル、幅約1.50メートル、高さ約1.55メートルを有し、壁面に漆喰の痕跡をとどめている。石棺はそれぞれ石室のほぼ中央に存するもので、身は刳拔きの式で外法長さ約2.20メートル、幅約1メートル、高さ約0.70メートルを有し、一枚石よりなる蒲鉾状の蓋がこれを掩うている。 この古墳は、あたかも、双方墳の形式を示し、それぞれ雄大な石棺をもつ石室をそなえており、終末期に属する古墳として稀有の示例に属するものであり、学術上の価値が高い。 |
二子塚古墳
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二子塚古墳(ふたごづかこふん)
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