事業の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 05:17 UTC 版)
事業家としての見瀬は失敗の連続であった。 1911年(明治44年)、的矢湾に設立しようとした見瀬真珠株式会社は真珠養殖事業の独占を図っていた御木本の特許侵害を理由とする妨害に遭い破産寸前に追いやられ、新聞に「真珠研究者相州逗子の浦にて、投身す」という誤報がでた。 1915年(大正4年)的矢湾鶴舞に鶴舞養殖場」を設立したが出資者の破産により経営不振となった。堤康次郎が、その株式の過半数を握って「大日本円形真珠株式会社」を設立するが、堤康次郎が突然手を引いたため、養殖事業は失敗した。 1920年(大正9年)、義兄の森本要助・佐藤忠勇と、的矢湾真珠養殖株式会社を設立する。事業は軌道にのらず、佐藤は牡蠣養殖(的矢かき)に転向した。現在、佐藤養殖場として全国に知られている。 晩年は特許権の分権契約金と、使用料で余生を送った。 三重県賢島の「眞圓眞珠發明者頌徳碑」に真円真珠の発明者として見瀬辰平・西川藤吉・御木本幸吉の3人の名が刻まれている。
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