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丹波攻略と畿内方面軍の成立とは? わかりやすく解説

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丹波攻略と畿内方面軍の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:47 UTC 版)

明智光秀」の記事における「丹波攻略と畿内方面軍の成立」の解説

天正3年1575年)の高屋城の戦い長篠の戦い越前一向一揆殲滅戦に、光秀参加する。そして、丹波国攻略任される丹波国山続きで、その間国人割拠して極めて治めにくい地域であった丹波国人は親義昭派で、以前信長に従っていたが義昭追放で敵に転じていた。 ただし、丹波国全て一致していた訳ではなく桑田郡宇津荘の宇津頼重船井郡内藤如安は親義昭・反信長姿勢早くから示していたが、彼らと勢力争いをしていた船井郡小畠永明早くから信長協力的光秀とも面識があった。また、桑田郡今宮川勝継氏小畠説得織田方に転じていた。 7月に入ると、まず光秀小畠・川勝の協力得て宇津頼重攻め始めるが、途中で信長より越前丹後方面への援軍命じられ離脱したところ、8月には宇津頼重織田方の馬路城・余部城攻められるなど苦戦するまた、丹後出兵背景には信長丹波攻略に対して曖昧な姿勢示しながら、山名氏領である但馬出石城竹田城への攻略進め氷上郡赤井直正対す牽制意図があったという。 一旦坂本城戻った光秀は、10月改め丹波攻略開始すると、宇津頼重戦わず逃亡し続いて竹田城攻略断念して帰還した赤井直正黒井城包囲するが、天正4年1576年1月15日八上城主・波多野秀治裏切り、不意を突かれ敗走する。この結果直後信長から朱印状与えられている小畠・川以外の国人多く離反したとみられている。 天正4年1576年4月石山本願寺との天王寺の戦い出動するが、同年5月5日逆襲受けて司令官塙直政戦死する光秀も、天王寺砦を攻めかかられ、危ういところを信長来援し助かる。23日には過労倒れたため、しばらく療養続けた同年11月7日1576年11月27日)、正室煕子坂本城病死するこの頃光秀余部城丹波本拠にしていたが、安定した本拠地として亀山に城を築くことを決めて、翌天正5年1577年1月より準備進めている。 天正5年1577年)、紀州雑賀攻め従軍する同年10月松永との信貴山城の戦い参加して城を落とす。同月丹波攻め再開して翌月には籾井城を落とすが一時的なもので、以降長期戦となる。そして難敵となった八上城包囲し続けその後丹波攻め各地への転戦往復して繰り返す天正6年1578年3月氷上郡赤井直正病死すると、再度丹波出陣し園部城荒木氏綱降伏させるが、4月29日1578年6月4日)には、毛利攻めを行う秀吉への援軍として播磨国派遣され同年6月神吉城攻めに加わる。ところが9月に入ると丹波国人の大規模な反乱発生して亀山城防衛要地であった馬堀城までも一時占拠され光秀急遽亀山城に入ると奪われた城を奪回した同年10月下旬信長背いた摂津荒木村重攻めて有岡城の戦い参加する。ところがこの段階では亀山城完成しておらず、重の乱を知った波多野軍は一時八上城包囲する明智軍攻勢をかけている。 光秀三女玉子洗礼名ガラシャ)と細川忠興勝竜寺城結婚する主君信長構想に基づく命令による婚姻であったことに特徴がある。 同年8月11日信長光秀出した判物があり(『細川家記』)、光秀軍功激賛細川幽斎文武兼備称え細川忠興武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績信長評価したうえで進めた光秀の娘玉子細川忠興との政略結婚であったことが知られるが、ただ懸念されるのは、この判物文体拙劣であり、戦国期書式著しく異なっていることである。このことから偽作可能性が高い古文書とされている。 天正7年1579年)、丹波攻め最終段階入っていたが、1月には波多野軍の反撃丹波の国人では数少ない一貫した織田であった小畠永明討死する。光秀永明遺児明智名字与えて小畠一族には一時的な名代立てるのは許すが、将来は必ず永明の子当主立てることを命じている。しかし、同年2月には包囲続けていた八上城落城同年8月9日1579年8月30日)、黒井城落とし、ついに丹波国平定。さらに、すぐ細川藤孝協力して丹後国平定した。 天正8年1580年)、信長感状出し褒め称え、この功績で、丹波一国(約29万石)を加増されて合計34万石領する。さらに、本願寺戦で戦死した塙直政支配地の南山城与えられる亀山城周山城築城し、横山城修築して「福智山城」に改名した黒井城増築し家老斎藤利三入れ福智山城には明智秀満入れた同年佐久間信盛折檻状でも「丹波の国での光秀働き天下面目施した」と信長光秀絶賛した。 また丹波一国拝領同時に丹後国長岡細川孝、大和国筒井順慶等の近畿地方織田大名光秀寄騎として配属される。これにより光秀支配丹波滋賀郡南山城含めた近江から山陰向けた畿内方面軍成立するまた、これら寄騎所領合わせる240万石ほどになり、歴史家高柳光寿は、この地位関東管領なぞらえて「近畿管領」名付けている。 同年10月信長光秀らを大和検地奉行として奈良派遣しており、これと関連する津田宗及書状残っていて、光秀と宗及の親しさ確認できる天正9年1581年)には、安土左義長爆竹道具準備担当をして、それに続く京都御馬揃え運営責任者任された。 同年6月2日1581年7月2日)、織田家には無かった軍法を、光秀家法として定めた明智家法』後書きに「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分召しだしそのうえ莫大な人数預けられた。一族家臣子孫に至るまで信長様への御奉公忘れてならない」という信長への感謝の文を書く。さらに翌年1月茶会でも「床の間信長自筆の書を掛ける」とあり(『宗及他会記』)、信長崇敬している様子がある。 同年8月7・8日(1581年9月4・5日)に、光秀実妹義妹の「御ツマキ」が死去し光秀比類無く力を落とした(『多聞院日記同年8月21日条)。公家等の日記に、ツマキ妻木散見する。これら『多聞院日記』ほかの妻木ツマキ各自同一人物なのか全く不明である。『多聞院日記』には御ツマキ信長の「一段ノキヨシ」とあり、歴史学者勝俣鎮夫は「一段キヨシ」を「一段の気好し」として、光秀の妹は信長お気に入り側室で、その死去光秀孤立化進み本能寺の変遠因となったとの説を立てている。だが「一段キヨシ」を安土城奥向き束ねる地位にいた、とする見解もある。 同年12月4日1581年12月29日)、『明智家法度』5箇条制定大きくなった家臣団織田家宿老馬廻衆への儀礼や、他家との口論禁止及び喧嘩厳禁違反者即時成敗自害命じている。 天正10年3月5日1582年3月28日)、武田氏との最終戦である甲州征伐では信長従軍する先行していた織田信忠軍戦闘主力で、今回見届けるものであり、4月21日帰還する

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