中期
中期(1997年 - 2002年)
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「マシーン・ヘッド」の記事における「中期(1997年 - 2002年)」の解説
約1年半にも及んだ長いツアーを終了後、バンドは新たにアルバムを制作するためにスタジオ入りし、再びコリン・リチャードソンをプロデューサーに迎えての2ndアルバム『The More Things Change...(ザ・モア・シングス・チェンジ...)』を完成させる。1997年3月25日に発売されたこのアルバムは前アルバムよりもさらにヘヴィな面を押し出した作品となり、ビルボードアルバムチャートにおいても138位を記録。そのままバンドはとどまることなくアメリカの代表的なロック・フェスティバルであるオズフェストにも参戦し、さらにバンドの地位を高めていく。そんな矢先、今度はロブ・フリンと共にギタリストの片腕としてバンドの核を担ってきたオリジナルメンバーのローガン・メイダーが脱退してしまう。しかしバンドは何とか新ギタリストのアールー・ラスター加入させ、ツアーをこなしていく。 またも長期に及ぶツアーを終えたバンドはアルバム制作に取り掛かり、1999年8月10日に3rdアルバム『Burning Red(バーニング・レッド)』を発表。新たな方向性を目指しコーンやスリップノットなどで知られるロス・ロビンソンをプロデューサーに迎えたこのアルバムは、それまでのアルバムに見られたスラッシュメタルのテイストは影を潜め、ラップ調のボーカルを取り入れるという大胆な方向転換を見せる。ビルボードアルバムチャートではバンド最高位である88位を記録したものの、音楽性だけでなく容姿までもが変化してしまった。 ツアー終えたバンドは、今度は新たにジョニー・Kをプロデューサーに次のアルバムを制作し始め、そして完成した4thアルバム『Supercharger(スーパーチャージャー)』を2001年10月2日にリリース。このアルバムもまたもや前回のアルバムの路線を引き継いだものとなった。さらに不幸なことに同アルバムからのシングル曲である「Crashing Around You」のミュージック・ビデオを制作するもビルが崩壊するという描写があったこのビデオは、数週間前に起こったアメリカ同時多発テロ事件の影響で国民を配慮しメディアの露出に規制がかかっていた時期と重なってしまい、このビデオも同様に放送できなくなってしまう。そのため十分なアルバムのプロモーションが出来なくなっていたバンドは、ロードランナー・レコードをも離れるという事態になった。 アメリカ国内での活動を制限せざるを得ない状況にあったバンドだったが、それでもヨーロッパを中心にツアーするなど精力的に活動していた。しかしツアー中、今度はギタリストのアールー・ラスターが脱退という状況になってしまう。そしてバンドはツアーを続けるため、かつてロブ・フリンとヴァイオレンスでプレーしていたフィル・デンメルを一時的にサポートギタリストとして迎えてツアー続けていった。ロードランナーとの契約上アルバムをあと一枚リリースすることになっていたバンドは初のライブアルバム『Hellalive(ヘルアライブ)』をリリースし、契約完了ということでレーベルを脱退することになる。
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中期 (1980年9月放送分より)
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「スーパーダイスQ」の記事における「中期 (1980年9月放送分より)」の解説
2問連続で解答しなければならない中央の赤い枠が撤廃され、代わりにジャンルパネルに「ジョーカー」が加わった。また「シャッフル」は、解答者がジャンルを選ぶ前に毎回行われるようになった。勝ち抜き賞金額も変更され、パネルの枚数に関わらず一律3万円になった。 「ジョーカー」を選んだ場合、その問題に正解すると、続けてもう1問解答することができる(そのため、一気にリーチをかけることが可能)。ただし、不正解の場合は相手に解答権が移り、正解すれば相手にそのパネルを獲得されてしまう(そのため、次のシャッフルの結果によっては相手に一気に勝ち抜けられてしまう)。なお、「ジョーカー」で出題される問題は特にジャンルは決められていなかった。いわゆる「ノンセクション」である。
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中期(中国航空戦)
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1943年3月10日、アメリカ陸軍航空軍の中国航空任務部隊(CATF)は廃止され、新たに中国方面専任の航空軍たる第14空軍に昇格・編成。その前の2月24日、梁山飛行場に進出した中国空軍(国民革命軍)飛行部隊に対し、第25戦隊の一式戦が飛行第16戦隊の九九双軽を掩護し侵攻。P-43 3機と交戦し1機を撃墜(第22飛行隊許機)、日本軍機は全機が帰還した。 4月26日、ビルマ航空戦を戦っている第64戦隊・第50戦隊の一式戦ほかの第5飛行師団飛行部隊が一時的に中国に派遣され、アメリカ陸軍の雲南駅飛行場を攻撃。奇襲に成功し地上戦果はP-40全損5機・18機損傷と第74戦闘飛行隊は完全に全滅、またC-47 5機を破壊、九九双軽による爆撃後は一式戦が超低空で対地攻撃を敢行し、アメリカ軍操縦者はM1911拳銃で一式戦に対し反撃を行った。28日、今度は昆明飛行場を攻撃、地上戦果はB-25 1機破壊および管制塔・作戦室・兵器庫を粉砕(しかし強い偏西風に流された爆弾が飛行場付近の村に着弾し100名以上の民間人が死亡)、しかし帰還中に第75戦闘飛行隊・第76戦闘飛行隊のP-40の執拗な追撃を受け空戦で一式戦は2機を喪失、重爆1機が損傷し、P-40は喪失はなかった(第64戦隊は2か月半ぶりに空戦で戦死者を出した)。 第25戦隊・第33戦隊は4月1日から同年8月21日にかけ10回の侵攻戦や防空戦を行いアメリカ軍のP-40やP-38と交戦するも、クレア・リー・シェンノート少将が中国人情報員を用い前線一帯に張り巡らせていた対空監視哨(航空情報網)によって早期警戒が可能であったアメリカ軍機は、有利な位置で待ち伏せ攻撃し空戦で一式戦は21機を喪失、一方で日本軍の戦果は戦闘機10機撃墜(P-40 9機・P-38 1機)に過ぎなかった。 8月21日午後、第25戦隊の一式戦は漢口に来襲したB-24編隊を迎撃、ビルマ航空戦を戦う第50戦隊から伝授された「対進攻撃」を行い、指揮官機を含むB-24 2機を撃墜(第374爆撃飛行隊長ビート少佐機ほか)、1機を撃破(途中緊急着陸)、ほか10機にも被弾の損傷を与える戦果を挙げた。 8月23日、飛行第58戦隊の九七重爆を第25戦隊・第33戦隊が掩護し重慶を攻撃、一式戦は対空監視哨からの情報により有利な位置で待ち伏せしていた中国空軍第4大隊・第11大隊の戦闘機と交戦し、九七重爆1機を喪失するも4機を撃墜した(P-66 2機・P-40またはP-43 2機)。 8月24日、昆明を出撃したB-24 7機が直掩戦闘機P-40 6機を連れ漢口に来襲、迎撃の第25戦隊・第33戦隊の一式戦はB-24 4機を撃墜し(第425爆撃飛行隊ロビンスン中尉機ほか)3機を撃破したが、第33戦隊長渡辺啓少佐機を含む3機を防御砲火や第16戦闘飛行隊のP-40の攻撃により喪失。 9月13日、第25戦隊第2中隊・第3中隊と第33戦隊は広東からハノイ近郊ギアラム飛行場に前進。15日、アメリカ陸軍航空軍第14空軍は仏印ハイフォンのセメント工場爆撃のため第308爆撃航空群のB-24 5機を出撃させたが、ハノイに進出していた一式戦は地上からの無線電話誘導によって的確にこれを捕捉・迎撃、2機を喪失するもB-24 4機を撃墜した(第373爆撃飛行隊)。また同日、漢口に残留していた第25戦隊第1中隊はP-40・B-25と交戦し指揮官機たるP-40 1機を撃墜している(第16戦闘飛行隊パイク少佐機)。 10月30日、九江の日本軍船舶を目標に来襲した9機の爆装P-38を第25戦隊が迎撃した空戦では、日本軍は対空監視哨と電波警戒機の早期警戒により待ち伏せをしていたため、喪失1機と引き換えにP-38 4機を撃墜(第449戦闘飛行隊エリスレン大尉機・ハーモン中尉機・テイラー中尉機・ロビンス中尉機)。 12月1日、中国戦線に中国空軍・アメリカ陸軍航空軍第14空軍に続き、アメリカ人と中国人双方の操縦者により編成される中米混成航空団(CACW、中美混合空軍団・米支混成空軍)が編成。同時期頃、二式戦を装備した飛行第85戦隊とニューギニア航空戦を戦った第11戦隊が戦力を回復し進出、また、アメリカ軍は新鋭のP-51を中国航空戦に投入している。 1944年1月23日、第25戦隊は編成以来撃墜戦果100機を達成したとして部隊感状を拝受。梅本弘は調査照合で確実性の高い最低限の数次として30機から40機の間と推測している。2月10日、第25戦隊は九江でP-51A 1機を撃墜(第76戦闘飛行隊マンベック少尉機)、中国航空戦で一式戦によるP-51初撃墜を記録。続いて24日、同戦隊は揚子江に飛来したP-38と交戦し1機を撃墜(第449戦闘飛行隊)。 2月10日、のちの大陸打通作戦こと一号作戦に対応するため、従来は主に中国方面の航空作戦を担っていた第3飛行師団は廃止され航空軍たる第5航空軍に昇格。 3月4日、第25戦隊第3中隊が地上攻撃中のP-38 4機・B-25 1機と交戦し、一式戦に損害無く一方的にP-38 1機を撃墜し残り3機を撃破(第449戦闘飛行隊、うち2機が帰途不時着)。同日、一式戦はP-51Aと交戦し1機を喪失し1機を撃墜(第76戦闘飛行隊ブルロック中尉機)。 4月29日、第25戦隊は直掩任務を終え帰還中のP-38と交戦、一式戦に損害無く一方的に指揮官機を含むP-38 3機を撃墜した(第449戦闘飛行隊長バーバー少佐機・キャンベル少尉機・ロール中尉機)。 5月6日、漢口に対しアメリカ軍戦爆連合40機が出撃、早期警戒した日本軍は邀撃を行った。まず第23戦闘航空群指揮官ヒル大佐機を含むP-51B 9機に対し一式戦は対進攻撃を実施し1機を撃墜(第76戦闘飛行隊ベネダ中尉機)、1機を撃破(第76戦闘飛行隊ストーンハム中尉機)、一式戦に喪失は無かった。さらに別方面でP-38 3機を撃墜(第449戦闘飛行隊グレッグ中尉機・オプスヴィック中尉機・ジョーンズ少尉機)、1機を撃破(ロンギール中尉機)、これも一式戦に喪失は無い。 1943年8月21日から1944年5月6日の期間中、中国戦線で主力となる一式戦は準主力となる二式戦とともに以下の戦果を記録。大戦中後期においてもビルマ航空戦と並び、中国航空戦で帝国陸軍航空部隊は連合軍空軍に対して互角以上の勝負を行い度重なる勝利を収めていた。 最低でも連合軍機44機撃墜、対する空戦損害は10機喪失。撃墜連合軍機の機種内訳は戦闘機33機・爆撃機11機、戦闘機の詳細はP-38 12機・P-40 10機・P-66 5機・P-51 3機・P-43 3機、爆撃機の詳細はB-24 11機(P-51の内訳はP-51A 2機・P-51B 1機) 日本軍側喪失の機種内訳は一式戦8機・二式戦2機。
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中期(ソロモン、ニューギニア航空戦)
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「一式戦闘機」の記事における「中期(ソロモン、ニューギニア航空戦)」の解説
3月10日、第11戦隊はソロモン方面のラバウルから今後主戦場となる東部ニューギニアのウエワクに前進。第11戦隊は引き続き船団掩護に従事したが消耗し6月に転出、代わって中国航空戦を一型で戦った第24戦隊が二型に改変し進出した。5月19日に第24戦隊の一式戦3機がB-24 1機と交戦し、1機を喪失するもこれを撃墜し初戦果を挙げた(第400爆撃飛行隊アーモンド中尉機)。 緒戦の南方作戦において第64戦隊とともに活躍した第59戦隊も同じくニューギニアに進出。6月20日にはオーストラリアのダーウィンに対し、第7飛行師団隷下の一式戦22機(第59戦隊)、一〇〇式重爆18機(飛行第61戦隊)、九九双軽9機(飛行第75戦隊)の3個飛行戦隊計49機(これとは別に敵情把握を受け持つ独立飛行第70中隊の一〇〇式司偵2機も出撃)が攻撃を行った(日本のオーストラリア空襲)。対するオーストラリア空軍はレーダーからの報告を受け、指揮官コールドウェル中佐以下3個飛行隊計46機のスピットファイアが迎撃。空戦において日本軍は一〇〇式重爆1機を喪失するも、スピットファイア2機を撃墜した。本戦でもまたしてもスピットファイアは格闘戦に終始しており、これには第59戦隊第1中隊長が訝しむほどであった。 7月10日、西部ニューギニアのバボ飛行場にB-24D 3機が来襲。給油のため着陸していた第59戦隊の4機とビルマから派遣されていた第50戦隊の2機が迎撃、対進攻撃で2機を撃墜した(第380爆撃航空群マーケル大尉機・マクドゥーエル中尉機)。11日、第1戦隊23機・第24戦隊第2中隊6機の一式戦はナッソウ湾を攻撃、このうち後続で出撃した第24戦隊第2中隊が途中発見したB-25を攻撃するも、慢心により直掩のP-39と偶然付近に居たP-38編隊の奇襲を受け中隊長機以下4機を喪失、戦果はP-38 1機撃墜であった(第9戦闘飛行隊デイヴィス少尉機)。 8月2日、第24戦隊の選抜一式戦8機は第18軍司令官安達二十三中将搭乗の九九軍偵を直掩。その帰途に戦爆連合と交戦し不利な低位戦にもB-17E 1機を撃墜(第65爆撃飛行隊)、一式戦8機は全機が帰還した。 8月15日、第24戦隊・第59戦隊の一式戦36機と九九双軽7機はファブア飛行場を攻撃。途中悪天候により編隊が崩れ九九双軽が先行してしまったため迎撃のP-39により九九双軽5機を喪失した一方で、追いついた一式戦がP-39 4機(第40戦闘飛行隊・第41戦闘飛行隊)、またC-47 2機(第374兵員輸送飛行隊)を撃墜し一式戦は全機が帰還した。翌16日、日本軍は再度ファブアを攻撃し第24戦隊・第59戦隊の一式戦33機はP-38 12機・P-47 32機およびC-47 24機と交戦。3機を喪失しP-47D 1機を撃墜(第348戦闘航空群レイトン少尉機)、P-38 1機を撃破(第431戦闘飛行隊ブライテ少尉機、緊急着陸)。ニューギニア航空戦でP-47は本空戦が初実戦投入である。 各飛行部隊は連合軍の猛攻のみならず補給の断絶により消耗(飛行第13戦隊は本来の装備である二式複戦を消耗し一式戦を使用、このほかニューギニア戦線には三式戦装備の飛行第68戦隊・飛行第78戦隊も展開)、栄養不足かつ過労状態の操縦者の多くは熱帯特有の疫病にも侵されていた。10月31日にはフィリピンにて戦力を回復した第59戦隊(一式戦23機)が合流、11月2日には新編の飛行第248戦隊(一式戦30機)も進出し一時的に戦力は強化されたが、質と量で勝る連合軍に対し苦戦を強いられていることは変わらず、南郷少佐が「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代にあらず」と日記にしたためているのは12月16日であった。 1943年末にニューギニア航空戦でアメリカ軍に鹵獲され、ブリスベンでリビルド中の一式戦一型(キ43-I) 同左機、アメリカ軍の国籍標識を描き試験中の一式戦一型(キ43-I) 同左機、飛行試験中の一式戦一型(キ43-I)
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中期(1295-1305)
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「フラウエンロープ」の記事における「中期(1295-1305)」の解説
ブレスラウ公ハインリヒ2世の死(1290)とルドルフ1世の死(1291年7月15日)を悼んだ歌はおそらく1291年の成立と見なされよう。1292年にはボヘミア王ヴァーツラフ2世(ヴェンンツェル2世)のオッペルン(Oppeln)における騎士叙任式に参加している。1304年にケルンテンで催されたケルンテン公ハインリヒ6世とヴァーツラフ2世の次女アンナとの結婚の祝い('ritterschaft')に参加したと思われる。1305年6月21日に亡くなったヴァーツラフ2世の死を悼む詩を著わしている。そのことを記す『オーストリア年代記』( Österreichische Reimchronik; 1309年以前に成立)で詩人は初めて'meister Heinrich'(「ハインリヒ師」)と呼ばれている。ボヘミアの宮廷で、詩人の最後のパトロンになるPeter von Aspelt(ペーター・フォン・アスペルト)との関係が始まったようである。この人物は1318年にマインツ大司教として大聖堂の回廊に詩人が埋葬されるように取り計らった人である。33詩節に及ぶ≫Minneleich≪(「ミンネライヒ」)は女性を「活動し癒す自然の力」として賛美している。この歌の最後の詩節にある≫Vrouwen ...lobes≪は隠された署名かもしれない。
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中期 (1986年 - 1988年3月)
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「パソコンサンデー」の記事における「中期 (1986年 - 1988年3月)」の解説
この頃一時降板していた小倉が復帰。パソコンの普及に従って、プログラミングよりも市販ソフトウェアの使用を中心とするユーザーが一般化していったことや、この頃発表された X68000 が、とりわけゲームユーザーやハイエンドPCユーザーに高い支持を得て、他メーカーPCとの住み分けが明確化されていったことなどから、プログラミング講座よりも、山下章や高橋雄一によるすぐに使えるパソコン・ゲームの小技、裏ワザや新商品情報など、パソコン情報紹介が番組の中心となっていった。 プログラミング特集ではX-BASICからX68000のコンパイラを用いたC言語プログラミング等も紹介されるようになる。 ゲーム紹介ではPCエンジンを内蔵したX1 Twinの登場によりPCエンジンソフトが紹介されることもあったが、番組内ではPCエンジンの名前は使われず、X1 Twin用ゲームソフト、HEシステム用ソフトなどと呼称された。また稀にシャープ製のツインファミコンを使ってファミコンソフトが紹介されることもあった。
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中期(夢のお買い物ゲーム)
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「ウルトラショップ」の記事における「中期(夢のお買い物ゲーム)」の解説
30組のペア(ほとんどが一般視聴者)が世界中から集めた様々なアイデア商品などを500万円の予算で購入する(最低4品以上)。 代金の調整として1箱1000円の「ウルトラショップ饅頭」を購入できる(最大200箱まで) 途中「ドラゴンチャンス」があり、ある商品の値段の上2桁を予想、ぴったり正解したペアは即、その商品をもらえる(2組以上いたらじゃんけんで勝った1組、逆にぴったりがいなければ視聴者プレゼントになる) 後にオープニングの人を減らすためのハイ&ロークイズが導入された。 内輪で最も500万円に近いペアが「お買い物キング」の称号を獲得、そして合計金額が495万円~500万円の間に入っていればその選んだ商品をすべてGET。(失敗の場合、現金20万円がもらえる)
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中期(1971年–1973年)
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「カン (バンド)」の記事における「中期(1971年–1973年)」の解説
1970年、イルミン・シュミットのコネクションでかねてから製作していた映画音楽作品を集めた『サウンドトラックス』を発表。マルコムとダモの参加作品が混在するなど、レコード会社の催促によるやや不本意な発表ではあったが、14分30秒の「マザー・スカイ (Mother Sky)」は、西ベルリンでディスコ・ヒットを記録した。このころからの数年間がカンの(一般的に言われる)全盛期といえる。 1971年の『タゴ・マゴ』は1枚物という当初の予定をイルミン夫人のヒルデガルトの発案で変更し、1枚目は当時のオーソドックスなロックに歩み寄ったはっきりと起承転結のある楽曲、2枚目はより実験的でプリミティヴなジャム、という対照的なマテリアルを組み合わせた2枚組として発売された。現代音楽、フリー・ジャズ、民族音楽のごった煮という、カンの特徴がよく表れたアルバムとなった。ちなみにアルバム・タイトルの「Tagomago」とはスペイン・バレアレス諸島の小島の名前である(イビサ島の東岸に位置する)。 『タゴ・マゴ』発表後、インナー・スペース・スタジオはネルフェニッヒ城館からケルン郊外の映画館跡地に移転する。 1972年に『エーゲ・バミヤージ』を発表。以前よりもポピュラー音楽的に展開のはっきり整えられた楽曲が並び、前衛性と軽やかさが同居したアルバムとなった。収録曲の「スプーン」(サスペンス・テレビドラマ『ナイフ (Das Messer)』の主題歌として作られた)のシングルは20万枚を売り、ドイツのシングル・チャートで最高6位というヒット曲となった。ジャケットの写真にはトルコにある「カン」というメーカーのオクラの缶詰が使われた(アルバムタイトルはトルコ語で「エーゲ海のオクラ」)。 1973年のアルバム『フューチャー・デイズ』は、批評家から高く評価された。ドラムスは軽く細やかなアフリカン・パーカッションを奏で、ダモのボーカルも気だるく、より環境音楽に接近した。しかし、このアルバムを最後にダモ鈴木が離脱。以降はマルコムの復帰も検討されたが果たせず、ミヒャエル・カローリとイルミンが主にボーカルを担当し、時には他のメンバーも担当する形になった。また、これまでのような実験性をやや抑えて、プロフェッショナルに様々なポピュラー音楽をなぞって構築しながら、自身のひねりを加えていく、ウェルメイドなサウンドに転換していく。
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中期(1961年–1973年)
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「ロバート・A・ハインライン」の記事における「中期(1961年–1973年)」の解説
1961年(『異星の客』)から1973年(『愛に時間を』)まで、ハインラインはリバタリアニズム的な小説もいくつか書いている。この時期の作品は、個人主義、リバタリアニズム、自由恋愛といった最も重要なテーマを追求している。『異星の客』は出版されなかった処女長編 For Us, The Living: A Comedy of Customs にも見られた自由恋愛と過激な個人主義をテーマとしており、書き上げた後もしばらく出版されなかった。『月は無慈悲な夜の女王』は月の植民地の独立戦争を描いたもので、政府によって個人の自由に突きつけられた脅威を描いている。 ハインラインはファンタジーをほとんど書いたことがなかったが、この時期に最初のファンタジー長編『栄光の道』を書いている。また、『異星の客』や『悪徳なんかこわくない』ではハードSFとファンタジー・神秘主義の融合を試み、宗教団体への皮肉も加えている。このような新たな方向性についてハインラインは James Branch Cabell の影響があったとしている。『悪徳なんかこわくない』について評論家ジェームズ・ギルフォードは「ほとんど一般的に文学的失敗とみなされている」とし、ハインラインは腹膜炎で作家としては死んだと結論付けた。
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中期(1990年頃~1993年9月まで)
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「ホットのしゃべって当てまショー!」の記事における「中期(1990年頃~1993年9月まで)」の解説
2人の回答者がラッパとフライパンを用いる早押し形式に変更。3曲出題され、勝者には食パン30斤とフジパンの詰め合わせ、敗者には局のノベルティが贈呈されたが、同様に30斤もの食パンを貰っても食べ切れず、有難迷惑だと敗退行為を働く回答者も少なくなく、1人の回答者に対して1曲のみ出題する形式に戻された。
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中期(超越論的現象学)
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「エトムント・フッサール」の記事における「中期(超越論的現象学)」の解説
フッサールの中期を代表する著書は、『イデーン』である。フッサールは、『論理学』において現象学を記述心理学と位置づけて、あらゆる前提を取り払った純粋記述として、自我の心理作用を記述しようとした。しかし、それでもなお、意識を自我の心理作用として解釈する心理学的な「一つの解釈」を前提にしており、心理学主義との批判を受ける余地があった。そこで、フッサールは、そのような解釈も含めて、すべての解釈を遮断する方法として「現象学的還元」が、また現象学的還元を方法として得られる個々の純粋現象の本質構造を明らかにする方法として「本質直感」が必要となるとするに至った。
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中期(2003年4月〜2004年3月)
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「大阪発元気ダッシュ!DOYAH」の記事における「中期(2003年4月〜2004年3月)」の解説
陣内智則(MC) 中澤裕子(MC) ランディーズ(中川貴志、高井俊彦) ビッキーズ(須知裕雅、木部信彦) w-inds.(千葉涼平、橘慶太、緒方龍一)(2003年9月まで) Lead(中土居宏宜、鍵本輝、谷内伸也、古屋敬多)(2003年10月から) ココナッツ娘。
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中期(週刊少年サンデー・別冊少年サンデー・少年サンデー増刊掲載)
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「おそ松くん」の記事における「中期(週刊少年サンデー・別冊少年サンデー・少年サンデー増刊掲載)」の解説
週刊少年マガジンでの『天才バカボン』の開始が引き金となり、週刊少年サンデーの誌面強化を理由に『おそ松くん』の週刊連載を打ち切られた赤塚は、代償に『おそ松くん』の月に1度の掲載と増ページを認めさせた。ここで発表した作品は初期後半同様、映画の翻案が多く、『イヤミはひとり風の中』『オメガのジョーを消せ』など映画の翻案のほか、非日常回が増え、日常回が極端に減ったこともこの時期の特徴の一つ。最終話『いまにみていろミーだって』(1969年)ではイヤミとバカボンのパパのコンビが実現している。なお別冊掲載は「イヤミ小隊突撃せよ」(1969年3月号)を以て終了したが、その後も同誌廃刊となる1974年3月号まで、『オバケのQ太郎』(藤子不二雄)などと共に過去週刊で連載した作品を再掲載した。そのため末期は別冊と後述の週刊少年キングの2冊に渡って連載されていた。
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中期(2009年4月~2012年3月)
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「ブギウギ専務」の記事における「中期(2009年4月~2012年3月)」の解説
内容改編から、プロモート依頼企画などが減少し、挑戦企画など出演者による道内ロケが多くなり、新たに「おおち係長」が赴任してきた。 番組の流れ オープニング(企画説明・前回までのあらすじ) ロケVTR ミニコーナー(ブギウギバンボイスや重大発表など、不定期) 次回予告・エンディング・告知
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中期(1959年から1961年)
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「ジョン・コルトレーン」の記事における「中期(1959年から1961年)」の解説
1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』収録に参加した。またアトランティック・レコードに移籍し、中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音した。この頃から、単なるハード・バップのテナー奏者から脱却すべく、独自の音楽性を模索する試みが始まる。自作曲が増え、同じ曲でも異なるサイドメンを起用してテイクを重ねることなどを試行している。 1960年春、マイルス・バンドを脱退。マッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズらと自身のレギュラー・バンドを結成してツアーに出ている。10月には、自身のレギュラー・バンドで大規模なレコーディングを敢行した。このときのセッションからは『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド(邦題:『夜は千の目を持つ』)』などのアルバムが生まれている。アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』のタイトル曲は、コルトレーンの最初のヒット曲となり、ここでの「3拍子+マイナー・メロディ+ソプラノ・サックス」という組み合わせは、以後コルトレーンの定型パターンとして繰り返し用いられている。またソプラノ・サックスは、コルトレーンに採り上げられたことを契機に、楽器としての魅力が広く認知され、以来ジャズ・フュージョン系のサックス奏者達の"必修科目"として盛んに用いられるようになる。 1961年、アトランティックを離れ、インパルス!レコードに移籍。3月にはマイルスのアルバム『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(英語版)(邦題:『いつか王子様が』)』の録音にゲスト参加。その後、新進気鋭のリード奏者エリック・ドルフィーを演奏者兼、編曲者として自己のバンドに加え、大規模なブラス・セクションによるセッションを行う。ここからは、インパルス!における初のアルバムとして『アフリカ・ブラス』『アフリカ・ブラス・セッション vol. 2』が生まれた。その直後、再びアトランティックにアルバム『オーレ!コルトレーン』を録音。同年秋には、ニューヨークのライブ・ハウス「ヴィレッジ・ヴァンガード」にほぼ連日出演するほか、ヨーロッパツアーにも出かけた。これらの演奏の様子は、後年『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を初めとするライブ・アルバムで聴くことができる。
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中期(metaphase)
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「有糸分裂」の記事における「中期(metaphase)」の解説
凝縮を完了した染色体が細胞の赤道面に配列する。このときそれぞれの染色体において一対の姉妹染色分体が識別可能となる。染色体の各1セットが各々正しく紡錘体に結合しているかがチェックされる(紡錘体チェックポイント)。結合に支障がある場合は細胞周期が停止する。この時期は正しい染色体分配、ひいては細胞分裂のための本質的なステップと考えられている。
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中期(metaphase)
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「体細胞分裂」の記事における「中期(metaphase)」の解説
中期には、高度に凝縮した染色体が紡錘体赤道面に並び中期プレート(中期板)が形成される。前中期の染色体は、両極からの動原体微小管との相互作用で振動しているが、すべての染色体の動原体が紡錘体赤道面に並ぶことで中期プレートが形成されると、後期に移行し姉妹染色分体の分離が始まる。すべての染色体が中期プレート上へ整列することは後期への移行に必須である。ゲノム情報を均等に分配するこの過程が正常に行われるように、進行を監視する機構の一つ(紡錘体形成チェックポイント)が働いており、均等に分配できるまで後期の移行が起こらない。
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中期(1927 - 1932年)
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「大同電力」の記事における「中期(1927 - 1932年)」の解説
大同電力による自社発電所の建設は大正末期の落合発電所の完成により一段落となり、その後しばらく中断された。この間は傍系会社を相次いで設立し、これらを通じて電源開発を展開して購入電力を増していった。傍系会社のうち資本金が4000-5000万円と大規模であったのは昭和電力と天竜川電力の2社である。 昭和電力は1926年(昭和元年)12月の設立。1929年(昭和4年)6月に富山県から大阪府に至る亘長296kmの154kV送電線「北陸送電幹線」を建設し、大同電力傍系の神岡水電から3万kWを受電して八尾変電所(大阪府中河内郡志紀村、現・八尾市)において大同電力への電力供給を始めた。続いて庄川に出力4万7,500kWの祖山発電所(富山県)を新設し、大同電力への供給を増加した。なお大同電力が福井県の九頭竜川水系に有していた水利権は未開発のまま昭和電力に委譲されたので、北陸地方における自社発電所は既設の西勝原発電所のみで増加していない。 一方天竜川電力は1926年3月に発足した。同社は天竜川に出力2万4,100kWの南向発電所(長野県)を1929年1月に建設。大同電力は同年2月南向発電所に自社送電線の「東京送電線」(送電電圧154kV)を接続し、その発生電力を受電した。東京送電線は南向から東京電灯釜無川変電所に接続する日野春(山梨県)までの区間が先行して完成し、翌1930年(昭和5年)8月に自社の東京変電所(神奈川県横浜市)まで延長して亘長225kmが全面完成している。この間の1929年12月、東京送電線の途中松島開閉所(長野県上伊那郡中箕輪村、現・箕輪町)から塩尻変電所までの連絡線が竣工し、天竜川と木曽川の系統が連絡された。 自社送電線は東京送電線のほかにも、犬山変電所から昭和電力八尾変電所に隣接する自社の八尾変電所までを結ぶ「大阪第二送電線」(送電電圧154kV)が、1930年9月に既設大阪送電線の増強用として建設された。
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中期(1764頃〜1817頃)
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「浮世絵師一覧」の記事における「中期(1764頃〜1817頃)」の解説
町人文化が爛熟した明和年間から文化年間に活躍した絵師。 志水燕十 月沙 石柳女 石仲女 緑亀洞石寿 燕川洞石鳥 金長洞石賀 並岡耕好 鈴木春信 鈴木春重(司馬江漢) 司馬江南 駒井美信 鈴木春次 仲国信 上野章波 菱川友幸 森野宗玉 内政 (浮世絵師) 礒田湖龍斎 土龍斎 大久保巨川 蘭雨 古川亀玉子 阿部莎鶏 至中 花房重信 山本重信 (浮世絵師) 菊川秀信 籟堂 至信 麦大 光信 東穿 井蛙 斧山勝 芳川春幸 橘保国 谷久和 春徳斎利英 春月堂利長 一筆斎文調 岸文笑(頭光) 玉川舟調 文康 石川豊雅 宮川柳川 遠山龍雲斎 菱川師興 勝川春章 黄雲 山田敬之 (浮世絵師) 勝川春好 勝川春英 勝川春潮 勝川春童 勝川春艶 勝川春鶴 勝川春里 勝川春紅 亜欧堂田善 遠藤田一 歌川豊信 歌川豊春 歌川豊久 歌川豊秀 酒井抱一 加保茶宗園 歌川豊勝 二代目 歌川豊春 歌川世の 桐鳥 勝川春常 勝川春泉 勝川春山 勝川春暁 勝川春林 勝川春橋 勝川春琳 勝川春洞 勝川春久 勝川春徳 叢豊丸(二代目 勝川春朗) 叢豊丸 (2代目) 勝尾春政 鳥居清長 鳥居清政 二代目 鳥居清元 振鷺亭 風養 玉川春水 北尾重政 北尾政演(山東京伝) 北尾政てる 兎角亭亀毛 北尾政美(鍬形蕙斎) 窪俊満 窪はつ 式上亭柳郊 水野廬朝 蒲生踊魚 濫江楼 万里 (浮世絵師) 恋川春町 喜多川歌麿 喜多川藤麿 喜多川月麿 喜多川行麿 琴風舎豊麿 喜多川長麿 喜多川式麿 喜多川竹麿 喜多川花麿 喜多川年麿 別人喜多川歌麿 常麿 喜多川秀麿 喜多川磯麿 喜多川此麿 喜多川千代女 道麿 峰麿 楽麿 長斎幾代麿 千哥信 豊章 樹下石上 文浪 千万 (浮世絵師) 栄松斎長喜 馬光 一壺斎牽信 東西庵南北 文龍斎 鳥文斎栄之 鳥高斎栄昌 鳥橋斎栄里 鳥園斎栄深 一楽亭栄水 五郷 一貫斎栄尚 琢斎栄玉 酔月斎栄雅 弄春斎栄江 栄烏 鳥喜斎栄綾 栄鱗 栄暉 栄樹 栄笑 栄甫 鳥卜斎栄意 霽月斎栄節 葛堂栄隆 一掬斎栄文 鳥玉斎栄京 文和斎栄晁 鳥囀斎栄寿 酔夢亭蕉鹿 翠松斎栄月 桃源斎栄舟 鳥龍斎栄源 春川栄山 鳥玄斎栄松 栄波 栄興 篠原女 礫川亭素潾 桃扇舎指月 観斎一揮 雲渓芦信行 藤原祐寛 桜川文橋 青蘭 有演 素楽 東洲斎写楽 歌舞妓堂艶鏡 東洲一保 初代 歌川豊国 初代 歌川国政 歌川国経 歌川豊広 歌川芳広 歌川直広 歌川広兼 歌川広演 歌川広恒 歌川国次 歌川国長 初代 歌川国久 歌川国丸 歌川国広 (石川氏) 竹斎龍子 歌川春光 硯寿堂 闇牛斎円志 十返舎一九 式亭三馬 岡本昌房 国花堂 耳鳥斎 鉄鳥斎 越鳥斎 兎鹿斎 蔀関月 岡田玉山 石田玉山 大原東野 丹羽桃渓 墨江武禅 桂宗信 桂みき女 西村中和 田中巨川斎 流光斎如圭 流光斎子健 梅好斎 年古楼梅溪 初代 柳文朝 二代目 柳文朝 不韻斎 初代 速水春暁斎 二代目 速水春暁斎 初代 鳥居清秀 鶴岡蘆水 竹原春朝斎 竹原春泉斎 秋里籬島 橘岷江 松好斎半兵衛 蘭好斎 真好 雪好 露好 翠釜亭邦高 暁鐘成 丸丈斎国広 国平 国晴 水府豊春 篤麿 豊政 燕川洞石鳥 沢雪嶠 紀夏海 山吐雲 下河辺拾水 小松屋百亀 月斎峨眉丸(牧墨僊) 古阿三蝶 祇園井特 森周峰 稲垣つる女 南竹堂 洋堂 菱川柳谷 三代目 堤等琳 森田安親 二柳斎吉信 堀田行長 括嚢 日本斎 高力猿猴庵 駒新 紀有文 椒芽田楽 谷鵬
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中期(第77 - 139話)
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「鉄腕アトム (アニメ第1作)」の記事における「中期(第77 - 139話)」の解説
空飛ぶアトムが、怪獣に襲われたウランを助け、悪人を退治しながら、ウランと共に世界各国の上空を飛ぶ(それを追うお茶の水博士)。ラストは2人で地面に立った所で、下に雲のようなものが現れ、それが「提供 明治製菓」のテロップとなる。
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中期(昭和21年 - 昭和49年)
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「古町 (花街)」の記事における「中期(昭和21年 - 昭和49年)」の解説
昭和22年(1947年)7月1日 - 「飲食営業緊急措置令」が公布される。 昭和24年(1949年)4月1日 - 野菜の配給統制が解除される。 昭和25年(1950年)4月1日 - 魚などの水産物の統制が全面的に撤廃される。 昭和25年(1950年)7月 - みそ、しょうゆが自由販売となる。古町の料亭が通年営業を再開。 昭和28年(1953年)8月 - 「古町芸妓番付」が発行される。 昭和34年(1959年) - 市川流市川仲子が逝去。新潟藤間流門下名取一同の協議により、藤間茂藤が西堀通8番町に稽古場を開き、希望者の指導にあたる。 昭和35年(1960年) - 古町芸妓202名を掲載したガイドブック、「新潟花街」が発行される。(昭和30年代の古町芸妓の人数は200名前後で推移) 昭和41年(1966年) - 古町芸妓の人数が168名に減少する。 昭和43年(1968年)1月 - 市山流五代目市川七十朗が逝去。 昭和45年(1970年) - 古町芸妓の人数が136名に減少。昭和43年以降、振袖希望者が0人に。 昭和45年(1970年)3月1日 - 市山流六代目市川七十世が六代目市川七十朗を、六代目の娘、純子が七代目市川七十世を襲名。
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中期(ヤルメラⅡ期)
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ヤルメラⅡ期になると、研究者によって「記念碑的建造物」とされる、高さ2m以上の建造物がみられるようになる。土器については、土器の磨きの技法について、時期を決定づける独特な特徴がみられ、前期すなわちヤルメラⅠ期にみられる土器の形や製作技法に加えてさまざまな把手をはじめとして鐙型注口のような付属物がつけられるようになる。また、この時期の遺物としては、厚手で良質な粘土でできた「ナプキンリング」と呼ばれる耳飾りが増えていくようになる。 1988年から1990年にかけて、高さ6m~9mに達する基壇マウンドである建造物102号と104号について発掘調査が行われ、その内部には高さ3m~4mの表面を石灰岩で塗り固めた土でできた基壇マウンドがあることが明らかにされた。 建造物104号の最下層の上から発見された焼かれて放棄された建造物の壁の破片について、放射性炭素年代を行ったところ、800-360B.C.ないしは290-251B.C.の年代が得られたことからこれらの建造物の年代が形成期中期に相当することが判明した。 一方建造物103号の基礎部分から840-390B.C.のころのより古い焼成を受けた建造物の壁の破片と形成期中期のメソアメリカ南部に分布していた「たいこ腹」の人物形象土器が出土している。メインプラザの南西隅に位置する高さ3mの構築物106号を試掘するとヤルメラⅢ期に相当するウスルタン式土器が建物の表面からも内部の充填物からも確認されていないことから、形成期後期に新たなピラミッドを覆う形で増築されてはいないことが明らかになった。 1989年の調査で構築物106号の下層の建物の粘土の内部から柱穴の列が発見された。つまり、構築物106号が完成する前には、いくつか集まるように住居跡がつくられたことを示している。
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中期 (1965年-1975年)
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「レイ・デイヴィス」の記事における「中期 (1965年-1975年)」の解説
「ウェル・リスペクテッド・マン」と「ホエア・ハヴ・オール・ザ・グッド・タイムズ・ゴーン」(どちらも1965年の夏に録音された)から始まり、デイヴィスの歌詞は新しい社会学的特徴を帯びていた。彼は、イギリスの階級制度の心理的影響に特に重点を置いて、一般的な労働者階級の人々の願望と欲求不満を探求し始めた。オリジナルの素材だけで構成された最初のアルバムである『フェイス・トゥ・フェイス』(1966)は、創造的なブレークスルーであった。バンドが演劇の効果音とバロック音楽のアレンジメントを試し始めたとき(ニッキー・ホプキンスはいくつかのトラックでチェンバロを演奏した)、デイヴィスの詩や曲は物語、観察、そして苦痛な社会的解説の独特の要素を完全に獲得した。曲のテーマとして、裕福なプレイボーイと上流階級の自己満足と怠惰を歌った「田舎の家」、「サニー・アフタヌーン」、自己満足の浪費成金の不注意な誇示を目指した「豪華邸宅売ります」、そして音楽ビジネス自体の傭兵的性質を歌った「セッション・マン」などがあった。 1966年後半までに、デイヴィスは社会的スペクトルの下層での生活の暗闇に取り組んでいた。シングルとして一緒にリリースされた「デッド・エンド・ストリート」とB面の「ビッグ・ブラック・スモーク」は、都市の強力なネオ・ディケンジアンの視点で見た貧困を描いた物であった。「シチュエイション・ヴェイカント」(1967)や「シャングリ・ラ」(1969)のような曲は、イギリスの労働者階級が採用した唯物論的価値観の根底にある無力な不安感と空虚さをほのめかした。同様に「キザな奴」(1966)は、カーナビー・ストリートと「スウィンギング・ロンドン」の消費主義と有名人への崇拝を巧みに風刺し、一方「デヴィッド・ワッツ」(1967)は、カリスマ的な上流階級の学生が享受する優雅さと特権を描いていた。 キンクスは、レイ・デイヴィスが大英帝国の過去に魅了され続け、「村の緑、パブ、パブリックスクールの消えゆくロマンチックな世界」を優しくほろ苦く呼び起こしたため、「ブリティッシュ・インベイジョンバンドの中で最も強固にイギリス的」と呼ばれてきた。バンドの中間期に、彼は伝統的なイギリスの文化と生活の多くの陽気で風変わりな、そしてしばしば皮肉なお祝いを書いた:「ヴィレッジ・グリーン」(1966年)、「アフタヌーン・ティ」、「オータム・オルマナック」(両方とも1967年)、「蒸気機関車の最後」(1968年)、「ビクトリア」(1969年)、「お茶をどうぞ」(1971年)、「クリケット」(1973年)。他の曲では、デイヴィスはイギリスのミュージックホール、ボードビル、トラッド・ジャズのスタイルを復活させた:「キザな奴」、「サニー・アフタヌーン」、「ダンディ」、「リトル・ミス・クイーン」(すべて1966年)。 「ミスタープレザント」と「エンド・オブ・ザ・シーズン」(両方とも1967年)。 「川辺にすわって」、「友人全員」(両方とも1968年)。「マリーナ王女の帽子のような」(1969年); 「パラノイア・ブルース」と「アルコール」(両方とも1971年)。「陽の当たる側をご覧」(1972年)、「ホリデーロマンス」(1975年)。時折、彼はラーガ(「ファンシー」、1966年)、ボサノヴァ(「ノー・リターン」、1967年)、カリプソ(「アイム・オン・アン・アイランド」、1965年; 「モニカ」、1968年;「エイプマン」、1970年;「スーパーソニック・ロケット・シップ」、1972年)など、より異なる音楽的影響でグループのサウンドを変化させた。 デイヴィスは、愛と家庭性の単純な報酬に対する世俗的な野心をあきらめることを歌うとき、(「ディス・イズ・ホエア・アイ・ビロング」、(1966年);「ふたりの姉妹」、(1967年);「ザ・ウェイ・ラヴ・ユースト・トゥ・ビー」、(1971年);「美しきジェネヴィーヴ」、(1973年);「すべて君のため」、(1974年))または友情と記憶の慰めを称賛するとき(「デイズ」、(1968年); 「ウォルターを覚えているかい」、(1968年); 「絵本」、(1968年);「若くて純真な時代」、(1969年);「モーメンツ」、(1971年);「思い出のスクールデイズ」、(1975年))しばしば最も影響力があった。さらに彼のもう一つの永続的なテーマは、個人主義的な個性とライフスタイルの擁護であった(「僕はウヌボレ屋」、1966年;「ジョニー・サンダー」、(1968年);「モニカ」、(1968年);「ローラ」、(1970年);「セルロイドの英雄」 、(1972年);「あの人たちは今、何処に」、(1973年);「日なたぼっこが俺の趣味」、(1973年))。1967年の曲「ウォータールー・サンセット」では、都会の無愛想さと孤独の真っ只中に、つかの間の満足感を見つけている。 キンクスにおけるデイヴィスの中期の作品は、新たな社会的良心の兆候を示した。たとえば、「ワイキキの休暇」(1966年)はかつて手付かずであった先住民文化の下品な商業化を嘆いている。同様に「ゴッズ・チルドレン」と「エイプマン」(どちらも1970年)、『マスウェル・ヒルビリーズ』(1971年)の「20世紀の人」、「複雑な人生」、「灰色の制服を着た奴ら」は、単純な牧歌的な生活を支持して、工業化と官僚主義を熱心に非難している。おそらく最も重要なのは、絶賛された1968年のコンセプトアルバム『ヴィレッジ・グリーン・プリザヴェイション・ソサエティ』が「メリーイングランド」の郷愁を愛情を込めて受け入れ、伝統的なイギリスの田舎の村と集落の生活の保護を提唱したことである。 洞察、共感、機知に優れたソングライターとしてのデイヴィスの評判の決定的な証拠は、キンクスのランドマークである1969年のアルバム『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』で聞くことができる。もともとは企画で終わったテレビ番組のサウンドトラックとして考案されたこのバンド最初のロックオペラは、ビクトリア朝時代の終わりから第一次世界大戦と第二次世界大戦、戦後の厳粛な年、そして1960年代まで、労働者階級のすべての人とその家族の試練と苦難を愛情を込めて記録したものであった。アルバムの全体的なテーマは、レイとデイヴの義理の兄弟であるアーサー・アニングの人生に部分的に触発された。アーサー・アニングは彼らの姉のローズと結婚し、戦後オーストラリアに移住した。ローズ自身もキンクスの初期の曲「ロージー、家にこないかい」(1966年)のテーマになっている。デイヴィスは大英帝国の衰退する運命に応じて変化するイギリスの労働者階級についての風刺的な観察で親密な家族の記録を飾り、『アーサー』は12の刺激的な曲でその野心的なサブタイトルを達成した。 RCAレーベルのこの期間(1971-75)でキンクスは、『マスウェル・ヒルビリーズ』、『この世はすべてショー・ビジネス』、『プリザヴェイション第一幕』および『プリザヴェイション第二幕』、『ソープ・オペラ』、『不良少年のメロディ~愛の鞭への傾向と対策』を生み出した。
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中期(2011年-2014年)
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「ルノーサムスン・QM5」の記事における「中期(2011年-2014年)」の解説
ルノーサムスンQM5(NEW QM5)フロント(LEプラス) リヤ(LEプラス) コクピット(LEプラス) 概要製造期間2011年- ボディ乗車定員5人 ボディタイプ5ドア クロスオーバーSUV 駆動方式FF/4WD パワートレインエンジンM9R型2Lディーゼル2TR型2.5Lガソリン(CITY、-2013モデル)M4R型2.0Lガソリン(CITY、2014モデル-) 変速機CVT(CITYのみ)6AT サスペンション前:ストラット式後:マルチリンク式 車両寸法ホイールベース2,690mm 全長4,525mm 全幅1,855mm 全高1,695mm1,710mm(4WD) テンプレートを表示 2011年6月23日 - 2012モデル(NEW QM5)として発表・発売開始。外装はラジエーターグリルも含めたフロント周りが一新され、全長が5mm伸びて4,525mmとなった。尚、後期におけるコレオスとの違いはフロントグリル(QM5はルーバーが2本+クロームフィニッシャーでコレオスはルーバーが3本)のみで、バンパー等の意匠は共通となる。サイドターンレンズがフロントフェンダー上からドアミラー内に移設され、一部グレードについてはアルミホイールのデザインも一新された。ただしインテリアならびにリヤ周りに関してはメーターとシート表皮以外、大きな変更はされていない。ボディカラーについては、2トーン配色が廃止され、新色「メイプルレッド」を含めた計6色を設定。エンジン性能は出力こそ変わらないが、環境性能と燃費がわずかながら向上されている。このMCを機にグレード名に「LEプラス」が三たび復活している。 2012年7月2日 - 2013モデルに移行。「ブラウンインテリアパッケージ」が設定され、前後スキッドプレートを全車に、サイドエアバッグを「LE」以上の全車に標準装備とした。同時に、アルミホイールのデザインも変更されている。尚、ラインアップはディーゼルについては変更なしだが、ガソリンは「SE25」「LE25」がラインナップから落ち、「LE25プラス」は「LEプラス」に変更された。11月13日 - サロモンとのコラボレーションによる特別仕様車「サロモンエディション」を発売。ロゴ入り専用シート、専用デカール、専用キッキングプレートなどを装備。「CITY」を含めた各タイプに設定。 2013年4月22日 - 2014モデルを発表・発売開始。フロントグリルとアルミホイールのデザインを変更。「CITY」はエンジンが2.5LからSM5と同じ2.0Lの「M4R」に変更され、価格を引き下げた。SM5やSM7で採用済のブラインド・スポット・ワーニング(BSW)を新たに設定し、運転時における側面の死角の低減に努めた。グレードも全てのトリムで「SE」「LE」「RE」を用意(当初、「RE」のみ2.0LディーゼルのFFは未設定だったが、遅れて追加。代わりにCITYのREを廃止)。 兄弟車のコレオス
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中期
「中期」の例文・使い方・用例・文例
- 中期的には
- 中期英語
- 下記の通り、中期の環境目標を定めています
- 妊娠中期の中絶は女性の身体に有害だ。
- それは江戸時代中期から人気がありました。
- ジュラ紀 《中生代中期の時代》.
- 古高地ドイツ語は、9世紀中期から11世紀の終わりまでの高地ドイツ語である
- 白亜紀中期の巨大な恐竜で、アルゼンチンで発見された
- 二畳紀中期から三畳紀後期にかけての全大陸に生息していたことが発見された絶滅した哺乳動物のような爬虫動物類
- 中期旧石器時代のヨーロッパ・西アジアにいた絶滅した頑強な人間
- 中期高地ドイツ語で書かれ、ジークフリートおよびチュートン族の王の伝説に基づいた叙事詩
- ウエストサクソン語の代わりに書き言葉として登場した中期英語の方言で、近代標準英語の礎となった
- 中期英語の方言
- スコットランドの低地地方で発達した中期英語の方言
- 中期英語の一方言
- 約1万5000年前に始まる石器時代中期
- 江戸中期に明から伝来した漢字の書体
- 江戸中期の国学者で,歌人でもある賀茂真淵の門下にあること
- 江戸中期の国学者で歌人でもある賀茂真淵の門下の人々
- 江戸中期以前に流通した貨幣
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