世紀の一番
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1939年1月場所4日目(1939年1月15日)、軍配が返るや突っかけた安藝ノ海は頭を下げながら突っ張った。双葉山も小刻みに突っ張り返して応戦し、得意の右差しに持ち込み右を覗かせてきた。左差しで食い下がろうと考えていた安藝ノ海は目論見が外れたが、逆に右前褌を取って食い下がる型に入った。両廻しを取れない双葉山は強引に右から掬ったが、逆に腰が伸びた。 土俵下力士溜まりの笠置山は心中、「今だ、今だ!」と絶叫したという。なかなか安藝ノ海の脚が飛ばず、後年「あれだけ入念に作戦を練って、まさにその通りになってもなかなか思い通りに行かないから相撲は判らない。あの安藝ノ海をしてそうなのだから…」と述懐したが、ついにその左外掛けで双葉山の牙城を崩し、二回目の掬い投げを打とうと双葉山が右足を踏み込んだ瞬間、安藝ノ海の左足が飛んだ。ぐらついた双葉山が掛けられた足を振り払って起死回生の右下手投げを打つが、安藝ノ海は右足一本でこらえて体を浴びせ、遂に双葉山が土俵中央に倒れた。 世紀の一瞬に、両國國技館は大鉄傘が大歓声によって震えたという。この取組のラジオ実況を担当していた和田信賢は、後ろの席に控えていた山本照に「双葉は確かに負けましたね?」と繰り返し確認した後、「双葉敗る!双葉敗る!双葉敗る!時に昭和14年1月15日。旭日昇天まさに69連勝、70連勝を目指して躍進する双葉山、出羽一門の新鋭・安藝ノ海に屈す!双葉、70連勝ならず!まさに70、古来やはり稀なり!」と絶叫した。 かくて安藝ノ海は双葉山の70連勝を阻止し、一躍英雄となる。一番の後、行司部屋で紋付に着替えて、ニュース映画用のインタビューを受けて國技館を出たが、部屋まで通常は徒歩5分のところ、この日は双葉山を倒した英雄を一目見ようと詰めかけた大観衆にもまれたことで部屋まで30分もかかり、到着時に足元を見ると雪駄が片方消えていたという。故郷の広島には「オカアサンカツタ」の電報を打ち、実家には直接電話をして勝利を報告した(実家ではラジオで勝利の報を聞いた家族が、全員で万歳している写真が新聞に載った)。この時、出羽海や、入門の時世話になった藤嶌からは、「勝って褒められるより、負けて騒がれるようになれ」と諭された。出羽海部屋の前では安藝ノ海見たさの観衆が夜遅くまで立ち止まっていたため、安藝ノ海は部屋の2階から観衆の声に何度も手を振った。 この「世紀の一番」は大相撲史上で最初の号外として伝えられたと言われているが、この号外の紙面は現存しない。
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