不確かな前歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 03:53 UTC 版)
父は大野定長(佐渡守)で、母は大蔵卿局といい、浅井長政とお市の方の娘である淀殿の乳母となったので、淀殿とは乳母子(めのとご)の間柄になる。淀殿の生年には諸説あるが、この経緯から考えれば、治長は同い年かそれに極めて近い年齢と考えられるので、最も有力なのは永禄12年(1569年)前後であろう。兄弟には、治房(主馬首)、治胤(道犬/道見)、治純(壱岐守)がいた。 出生地には二説あるが、『尾張群書系図部集』は『尾張志』『張州雑志』などを根拠に、丹後国丹後郡大野村で生まれたとする説の方を誤伝として、尾張国葉栗郡大野村で生まれた城主一族であるとしている。大野氏はもとは石清水祠官(しかん)の家で、神職を失って美濃国に流れてきた大野治定(伊賀守)が、織田信長の命令で同地に大野城を築いて居城とした。この治定は祖父にあたり、定長はその子で、大野城を継いだ治久は定長の弟(治長から見れば叔父)にあたる。『南路志』によれば、尾張葉栗郡の同郷の毛利勝永とは従兄弟の関係にあったという。 大蔵卿局および治長らは、小谷城以来、ずっと淀殿に付き従っていたと考えられるが、天正11年(1583年)の越前北ノ庄城の落城後はその淀殿の所在すらよく分からなくなるので、大野一族がどのような顛末を辿ったのかは不明である。一方で、この間、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に、本家の大野治久は豊臣秀吉に逆らって失領し、大野城を失っている。 前歴は不詳といって差し支えなく、治長が秀吉の馬廻衆となった時期もよくわからないが、(織田信雄、または佐治信方や織田長益のもとにいたらしい)淀殿が秀吉の庇護下に入った時期に関係があると思われるので、淀殿が秀吉の側室となった天正16年(1588年)頃か、もしくはその少し前と推測される。 天正17年(1589年)に父および母の功績により、太閤蔵入地から和泉国佐野(現在の泉佐野市)と丹後国大野に合計1万石を与えられ、丹後大野城を拠点として領国を運営した。これは明らかに同年に淀殿が鶴松を出産したことに関連する褒美ないし祝賀の加増であろう。
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