かみ‐がた【上方】
じょう‐ほう〔ジヤウハウ〕【上方】
うえ‐ざま〔うへ‐〕【上様/上▽方】
かみ‐ざま【上様/上▽方】
上方
上方
上方
上方
姓 | 読み方 |
---|---|
上方 | うえかた |
上方 | かみがた |
上方
上方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 05:36 UTC 版)
藤明派1900年、3代目桂藤兵衛、西國坊明學の設立。 寿々女会4代目笑福亭松鶴、初代桂枝雀の設立。 浪花派1918年(大正7年)に初代桂春団治が三友派を離脱し設立。後に花月派に買収され吉本入り。 大八会大正時代宮崎八十八が中心に結成。万歳師や漫談家が所属。ミスワカナ・玉松一郎や花月亭九里丸(九里丸は後に反対派に所属) 大正派大正元年に初代桂枝雀が設立。 圓頂派明治中期に初代橘ノ圓が結成。神戸中心に活動。他にも一門の橘ノ圓都や上方で桂派のメンバーだった2代目三遊亭圓馬も顔を出した。
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上方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 06:24 UTC 版)
「三笑亭可楽 (5代目)」の記事における「上方」の解説
上方5代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、? - 1890年5月20日)は、本名、原 吉弥。俗に「京の可楽」「京都の可楽」。あだ名は禿げ頭だったことから「播磨家」(ハゲマヤの洒落)。 3代目三笑亭可楽(武生可楽)の門流で2代目笑福亭吾竹の客分であった。 初名を笑福亭小三馬。1876年頃に4代目笑福亭吾竹を経て、1887年11月、上方5代目三笑亭可楽を襲名したとされる。 江戸(東京)のネタを多く演じ長編人情噺を得意とした。 墓所は墨田区本久寺。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 05:41 UTC 版)
初代林家正楽 - 後の2代目林家正三。 2代目林家正楽 - 後の3代目林家正三。 3代目林家正楽 - 初代林家正三の門で3代目正楽を名乗った。 4代目林家正楽 - 初代林家木鶴の門で4代目正楽を名乗った。 5代目林家正楽 - 後の5代目林家正三。 6代目 林家 正楽(はやしや しょうらく、1853年3月7日 - 1929年8月31日)は、上方落語の落語家。本名:織田 徳治郎。俳名は日歳庵程来。娘婿は5代目笑福亭松鶴。6代目笑福亭松鶴は孫にあたる。 1883年8月31日に林家宗太郎(後の5代目正三)門で、林家(または桜川)新三。大阪の新町九軒の末広席で初舞台。1888年ころにしん鏡を経て、1900年ころに6代目正楽を襲名。 師匠の影響で「藤原派」「互楽派」に参加、解散後は「寿々会」「浪花三友」「浪花」「吉原」「反対派」「花月」などを転々、主に神戸を中心に活動する。余芸で俳句も嗜み、弟子を持つほどの腕前であった。1927年ごろまで高座に上がったが、その後は若い噺家の稽古台に専念した。現在でも多くの噺家が演じる「鉄砲勇助」をよく演じていた。 76歳没。法名は釋見徳。
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上方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 15:00 UTC 版)
なお上方落語界では、東京で三遊派の流れを汲む落語家の下で修行した後に上方へ移った落語家や、そのような人物の門下から三遊派の流れを汲む名前を継いだ(名乗った)者もおり、例として5代目橘家圓太郎、初代橘ノ圓(ともに4代目圓生の門下)、3代目立花家千橘、2代目立花家花橘(ともに立花家橘之助の門下)、橘ノ圓都(初代橘ノ圓の門下)などがいる。他にも特定の師匠なしで三遊亭の亭号を名乗った三遊亭圓子がいる。4代目立花家千橘は2代目露の五郎兵衛の門下ではあるが8代目橘家圓蔵の許諾を得て名乗っている。定紋は三ツ組橘を使用。
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上方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 02:20 UTC 版)
京・大坂では「かんてき」と呼ばれ瓦器売により販売されていた。構造は素朴なバケツ様であり、割木や小枝、消し炭などを燃料とし、火熾しや煮炊き、串焼きなど雑用途に使用されていたと考えられる。裸火で使用することが前提であるため土間や屋外で使用した。
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上方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 07:53 UTC 版)
寿々女会4代目笑福亭松鶴の設立。 浪花派1918年(大正7年)に初代桂春団治が三友派を離脱し設立。後に花月派に買収され吉本入り 大八会大正時代宮崎八十八が中心に結成。万歳師や漫談家が所属。ミスワカナ・玉松一郎や花月亭九里丸(九里丸は後に反対派に所属) 大正派 圓頂派明治中期に初代橘ノ圓が結成。神戸中心に活動。他にも一門の橘ノ圓都や上方で桂派のメンバーだった2代目三遊亭圓馬も顔を出した。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 14:25 UTC 版)
江戸時代以降の呼称。本来京都(あるいは京都の方向)を指すが、大阪を含む広い範囲をも指す。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 09:09 UTC 版)
上方代数不明三笑亭芝楽 - (1841年 - 没年未詳)本名、原田 熊二郎。江戸の塗師職人で1866年から仮名垣魯文らの水魚連で声色をやっていた。のちに「八ッ足蛸」「佃屋白魚」を名乗った。一度浅草で寄席の経営に手を出した失敗し地方にドサ廻りを経て1874年に上方に移住。この頃にはすでに三笑亭芝楽を名乗っていたという。晩年先代同様に京都笑福亭の席亭をしていた。1915年以降消息不明。実の子は佃家白魚で、その妻女が後に女剣劇の元祖といわれる青柳華嬢。 自称初代三笑亭芝楽 - 後の上方6代目三笑亭可楽。 2代目三笑亭芝楽 - (生没年不詳)上方自称初代芝楽の門下であった2代目三笑亭吾妻の実子。明治中期頃の生まれ。初め小妻を名乗る。昭和初期、父と共に松旭会や三仲会の諸芸の一座を組織し活動していた。1938年、2代目笑福亭福圓の勧めにより、2代目芝楽を襲名。5代目笑福亭松鶴主催の「楽語荘」同人となり、主に「上方はなしを聴く会」や寺院などで小さな会を催した。戦後まで高座に上がった。没年は昭和年間とみられる。得意ネタは『質屋蔵』『浄瑠璃息子』『生貝』など。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 17:40 UTC 版)
「三笑亭可楽 (6代目)」の記事における「上方」の解説
上方六代目 三笑亭 可楽(さんしょうてい からく、1861年 - 1925年)は、落語家。本名:辻村 藤三郎。享年不詳。 初め四代目笑福亭吾竹門下で三笑亭吾妻と言い、吾竹が1887年11月、京都で五代目三笑亭可楽を名乗った際、同時に上方初代の三笑亭芝楽を名乗った。 1890年12月に上京し、四代目三遊亭圓生の客分として三遊派に加入し、翌年に初席。しかし、当時の東京には上方落語を受け入れる土壌は未だ育っておらず、初代桂小南以前に東上した大阪の落語家としての足跡は、そのまま忘れ去られてしまった。 1894年4月に真打昇進したが、間もなく京都に戻り、二代目桂文枝門下で初代桂文光を名乗る。その後、何らかの理由で文光の名を返上させられ、芝楽に戻る。その後、1910年に六代目三笑亭可楽を襲名するも、錦座の経営難で転業になり引退同然のような形になった。 1911年7月、五代目橘家圓太郎から京都笑福亭の席亭の座を譲られる。晩年は、娘が祇園で営んでいた茶屋「辻村屋」で悠々自適の余生を過ごしたり、芸人(落語、講談、手品、俄など)を引き連れて老松会を組織し慈善公演を行なったりもした。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 09:30 UTC 版)
橘家 圓之助(たちばなや えんのすけ、本名∶今堀(いまほり) 勝弘(かつひろ)、1934年(昭和9年)2月10日 - )は、元落語家。 1953年9月に橘ノ圓都に入門し圓之助。のちに落語を廃業し1967年に音楽ショウ「浮世わたるカルテット」に堀京司の名で参加。 そこも離れ、漫才師になり山乃凡々の名で梅乃凡々と組む。解消後に漫談に転じたが、そこも辞め芸能マネージャーとなる。ラジオでの2代目桂ざこばの発言によるとその後はうどん屋になったという。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 03:31 UTC 版)
上方初代桂文之助 - 後の2世曽呂利新左衛門。 上方2代目桂文之助 - 本項にて記述。 上方3代目桂文之助 - 2代目桂枝雀門下の桂雀松が2013年10月に襲名。 2代目 桂文之助(1859年 - 1930年4月16日)は、本名: 山田萬太郎(萬次郎とも)。享年72。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 22:26 UTC 版)
初代林家小正楽 - 後の桂仁左衛門。 2代目林家小正楽 - 不明。 3代目林家小正楽 - 後の桂枝雁。 4代目林家小正楽 - 不明。 5代目林家小正楽 - 後の3代目桂文紅。
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上方
「上方」の例文・使い方・用例・文例
- 表参道へ行くには押上方面行きの電車に乗ってください。
- 上方筋から大口の買いが出された模様だ。
- 第3四半期の業績予想を上方修正しました。
- 劇場の扉の上方にかかっているその言葉は、高さ1メートルありました。
- 経済の先行きが明るくなっているので、日本の大企業が今年予定している設備投資は上方修正された。
- その摩天楼はまわりの他の建物の上方にそびえていた。
- この銃は正確だ[上方にそれる].
- 破片が上方へとんだ
- 上方へ移動できる
- 交互に上方と下方へ
- 上方に位置を変える行為
- 上方に移動できる
- 上方に光線を動かす
- 波などの自然力の影響を受け、上昇する、または上方へ持ち上がる
- 空に、上方へ、または、高く飛ぶ
- 上方に動く
- 暖房の影響より、泡で上方へ移動する
- 長い脚と水掻きのある足に細長い先が上方に曲ったくちばしを持つ、黒と白のサギ・チドリ類の水辺にいる鳥
- 彼の敵は顎まで上方に向って切られた
- つるによるかのように上方へ動くような
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