ヤール・レストラン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:42 UTC 版)
「グリゴリー・ラスプーチン」の記事における「ヤール・レストラン事件」の解説
1914年10月、警視総監ステパン・ペトロヴィチ・ベレトスキーはラスプーチンを24時間体制で監視するように命令した。監視役は二人組で、内一人は注意を引き付ける囮役だった。1915年1月にロシア帝国内務省警察部警備局はラスプーチンの私生活に関する報告書を作成し、ニコライ2世に提出した。ニコライ2世は一日かけて報告書を読み、報告書はラスプーチンの敵である警察の捏造だと判断した。 1915年3月25日、ラスプーチンは警護と共にモスクワを訪れ、翌26日の夜に泥酔状態で、ヤール・レストラン(英語版)前にいたジプシーの女性歌手グループの前でズボンを下ろし男性器を露出したという。しかし、娘マリアによるとラスプーチンは暗殺未遂事件以降、土地勘のない場所に行くことを怖がるようになったため、夜に出歩くことはないと主張している。また、警察もレストランの従業員や歌手たちに話を聞くこともなく、信頼性に欠ける報告書を6月に提出した。 現在では、この事件はラスプーチンの評判を貶めるためにドズコフスキーが捏造したものだとされている。後年、ドズコフスキーとベレトスキーは、ラスプーチンがヤール・レストランを訪れた事実はないと認めている。
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