ファン‐アイク【van Eyck】
ヤン・ファン・エイク
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ヤン・ファン・エイク(蘭: Jan van Eyck、1395年頃 - 1441年7月9日)は、初期フランドル派のフランドル人画家。日本語文献ではヴァン・エイク、ファン・アイクなどとカナ表記される場合もある。
- ^ 本稿における「北ヨーロッパ」という用語は「北欧」ではなく、アルプス以北の地域ないし文化圏を意味する。
- ^ Châtelet, Albert, Early Dutch Painting, Painting in the northern Netherlands in the fifteenth century. pp.27 - 28, 1980, Montreux, Lausanne, ISBN 2-8826-0009-7
- ^ ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』集英社、2015年、口絵頁。ISBN 978-4-08-720815-3。
- ^ ヘントの人文主義者マルクス・ファン・フェーネウィクとルークス・デ・ヘール・ヘントによる。
- ^ Borchert (2008), p.8
- ^ ヤン・ファン・エイク メトロポリタン美術館
- ^ (see this copy [1] ).
- ^ ““視覚の革命”を起こした、ヤン・ファン・エイクの名画を訪ねてベルギーへ。【前編】”. Pen Online (2020年3月7日). 2024年6月11日閲覧。
- ^ Gombrich, E.H., The Story of Art, pp.236 - 239. Phaidon, 1995.
- ^ Renaissance Art Reconsidered, ed. Richardson, Carol M., Kim W. Woods, and Michael W. Franklin, p.187
- ^ この伝説は『画家・彫刻家・建築家列伝』を底本とした、ドイツ人画家、詩人カレル・ヴァン・マンデルの著書『画家列伝(画家の書)』で、さらに広く流布した。実際には木材などの着色料として油絵具が使用されてきた歴史は古く、様々な美術に関する著作を残したベネディクト会修道士テオフィロスが1125年に書いた論文『諸技芸大要』に説明されている。現在では、初期フランドル派の第一世代の画家であるヤンとフーベルトのファン・エイク兄弟が精緻な板絵を制作するために油絵具を取り入れ、様々な油彩技法を試行、確立することによって、それまでにない目覚しい効果をあげることに成功したと見なされている。(Gombrich, E.H., The Story of Art, pp 236 - 239. Phaidon, 1995. ISBN 0-7148-3355-X)
- ^ Borchert, pp.92 - 94
- ^ 『ベルギー・フランダース』 2004, p. 65.
- ^ フランス革命の余波で破壊された。
- ^ Borchert, p.94
- 1 ヤン・ファン・エイクとは
- 2 ヤン・ファン・エイクの概要
- 3 評価と後世への影響
- 4 参考文献
- 5 邦語文献
ヤン・ファン・エイク
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「玉座のナポレオン」の記事における「ヤン・ファン・エイク」の解説
美術史家ロバート・ローゼンブラム(英語版)は、アングルの描いた肖像画のモデルは、ヤン・ファン・エイク作『ヘントの祭壇画』の父なる神の姿であると考えた。『ヘントの祭壇画』は、アングルが『玉座のナポレオン』を描いた当時はルーヴル美術館に所蔵されていた。当時の批評家ピエール=ジャン=バティスト・ショサール(フランス語版)は、『玉座のナポレオン』のアングルの様式と、のちに「ブルッヘのヤン」と呼ばれたヤン・ファン・エイクの様式とを比較している。 『玉座の皇帝陛下』(9フィート×13フィート)について、著者はこれらの絵の説明をしなかった。我々は最初、皇帝の肖像画だと考えた。これほどの才能、完璧な線、細部への徹底的な配慮をもってして、アングルが駄作を制作するはずがあろうか?その答えは、彼が非凡な何か、驚異的な何かを求めていたということである。人は必ずしも、踏み固められた小道を一歩ずつたどるわけではない。しかし人は、険しい方の道を選び取るべきでもない。ヤギのように敏感な心の持ち主は、露出した岩の上の給餌だけが喜びとなる。良き心は、確実で安全な道を選ぶことから成る。そしてそれこそ巨匠らが経験に助けられながら選んできた道である。そこから外れると人は、道に迷う危険を冒すことになる。同様に建設の分野では、特別なものへの美しい情熱のため、フランチェスコ・ボッロミーニやジル=マリー・オプノールがすべての線描芸術を完全に邪道に導いてしまった。それでも、この堕落趣味の案出者は、古代の傑作や、目の前のイタリアの傑作を手にしていた。別方面で、ゴシックに劣らずいまいましいのは、アングルがブルッへのヤンの様式を復活させ、芸術を4世紀も後退させて、我々を揺籃期に押し戻したも同然なことだ。しかし、この揺籃の芸術には、少なくとも素朴さと真実とがあったし、このシステムによってのみ芸術家は描き方を知ることができた。彼らはそれ以上にすぐれた作品を生むことができなかった。・・・サロンの評判に耳を傾けたところ、その感想は、芸術を知るものも大衆もほぼ同じであった。まず絵を一瞥して、わめく者もあれば、その構成や配置をあざける者もいた。それから絵に近付くと、凝った仕上げや、布地の表現の正確さを称賛する。しかし再び、画家がこれほど異様な効果を狙ったことに、不満を感じるようになる。まずなぜ皇帝の肖像なのか? それは最も理解しがたいことである。玉座は重厚で、笏を手に持つことは幸運なことに達成されていない。画家は、残りのゴシックのメダイヨンでも同様の姿勢であったという。皇帝の頭部については、太り過ぎているし、全然似ていないし、色も間違っている。繊細な筆遣い、仕上げの丁寧さ、溶け合った色調にもかかわらず、いくぶん無味乾燥で、効果も薄く、カンヴァスを跳びだしてくることもない。 しかし、アングル自身は次のように明言している。 私はブルッへのヤンを尊敬していて、多くの点で自分も彼のようでありたいと願っている。しかしそれでも、彼は私の画家ではないのだし、(批評家が)適当に彼を引き合いに出しただけだと考えている。
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ヤン・ファン・エイク(1390年頃 - 1441年)
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「フランドル美術」の記事における「ヤン・ファン・エイク(1390年頃 - 1441年)」の解説
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