モデルニスモ
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モデルニスモまたはモデルニズモ(Modernismo)またはモダニスモ様式。
- ^ 岡部明子『バルセロナ 地中海都市の歴史と文化』中央公論新社、2010年、62頁。ISBN 978-4-12-102071-0。
- 1 モデルニスモとは
- 2 モデルニスモの概要
- 3 脚注
モデルニスモ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/23 18:02 UTC 版)
ニカラグアのルベン・ダリーオによって輪郭を与えられた19世紀末のモデルニスモ文学の影響はウルグアイにも及んだ。『山上の法悦』(1904-1907)で知られるフリオ・エレーラ・イ・レイシグ(英語版)はモデルニスモ詩の巨匠の一人であり、全ラテンアメリカで最も偉大な詩人の一人であった。モデルニスモ散文においてもウルグアイは多くの人物を生み出した。ウルグアイのモデルニスモ散文には、自然主義に傾倒し、ガウチョをテーマにしたエドゥアルド・アセベド・ディアス(スペイン語版、英語版)、写実主義的にありのままの落ちぶれたガウチョを描いたハビエル・デ・ビアナ(スペイン語版、英語版)、カルロス・レイレス(スペイン語版)、上流階級の人と同じぐらいの大変な人気と趣に富んだ作者として大きな影響を与え、モデルニスモを新境地へ押し上げたオラシオ・キロガ(スペイン語版、英語版)などの名が挙げられるが、特に活躍したのはホセ・エンリケ・ロドー(スペイン語版、英語版)だった。ロドーはウィリアム・シェイクスピアの『テンペスト』から着想を得た寓話『アリエル(スペイン語版)』(1900)で、キャリバンに象徴された物質主義的なアメリカ合衆国文明に対し、アリエルに象徴された精神主義的なラテンアメリカ文明を対置した。ロドーのアリエル主義は瞬く間にラテンアメリカの青年層の支持を集めた。彼等はラテンアメリカフィクション散文の第一世代となった。 その後、後期モデルニスモにおいてはフアナ・デ・イバルボウロウ(英語版)とデルミラ・アグスティーニの二人の女性によってウルグアイ文学は牽引され、イバルブールは全くその時代のイスパノアメリカの情感を詩的な方向に規定し、大変な人気を誇った。エミリオ・フルゴーニ(スペイン語版、英語版)とエミリオ・オリベ(スペイン語版、英語版)は作詞家として有名だった。
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モデルニスモ
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1853年にハバナで生まれたホセ・マルティは若くして独立運動と詩作、劇作の道を歩み、『素朴な詩』(1891)など、モデルニスモ文学を代表する傑作を残した。さらに散文においても亡命先のニューヨーク滞在中に培った鋭敏な時代精神から、アングロアメリカの物質文明に警鐘を鳴らした『我らのアメリカ』(1891)などの優れた評論をも残している。マルティは1892年にキューバ革命党を設立した後、1895年に第二次キューバ独立戦争で戦死したが、キューバ独立の父となったのみならず、ニカラグアのルベン・ダリオやウルグアイのホセ・エンリケ・ロドーと共にラテンアメリカの精神文明の批評に大きな役割を果たした。
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モデルニスモ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 08:17 UTC 版)
19世紀末にニカラグアのルベン・ダリオがモデルニスモ文学を主導すると、ダリオが1893年から1895年までブエノスアイレスに滞在したこともあり、アルゼンチンはモデルニスモの一つの中心となった。レオポルド・ディアスやボリビア出身のリカルド・ハイメス・フレイレ、そしてレオポルド・ルゴネスなどがダリオを中心に集まった。ダリオの影響を受けた『黄金の山々』(1897)から創作活動を開始したルゴネスは、無政府主義、社会主義、国家社会主義と政治的な立場を変えながらも一貫して象牙の塔を拒んだ大衆の指導者たる詩人であり続けようとした末に、自分の無力さを悟り、自殺した。
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