メアリーとナイティンゲール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/25 14:05 UTC 版)
「メアリ・シーコール」の記事における「メアリーとナイティンゲール」の解説
メアリーとナイチンゲールは、両者の全く異なる看護における達成を評価すべきであり、メアリーを「黒人のナイチンゲール」というようにナイチンゲールの影に隠すべきではない。メアリーとナイチンゲールは、両者ともにクリミア戦争において看護実践を展開したが、両者の実践はそれぞれ異なる長所短所を持っていた。 端的に言えば、ナイチンゲールがクリミア半島から離れたトルコ本土の病院での優れた管理能力を発揮したのに対し、メアリーはより前線の近くで治療を行い、飲食物や休息の場を提供した。 メアリーとナイチンゲール自身がお互いに対して抱いていた印象については、あまり記録が残されていないものの、齟齬があったと見られることがで明らかにされている。1855年3月にトルコに到着したメアリーは、スクタリの病院へナイチンゲールを訪問し、短い面会をした後、その晩はスクタリの病院の洗濯係の部屋に宿泊したという。 メアリーは後にバラクラヴァ(ウクライナ南部、クリミア半島南西岸の町)で何度もナイチンゲールを目にしたと記録を残しているが、詳細については述べていない。 ただし、メアリーが抱いたナイチンゲールの第一印象としては、以下のような記録を残している。「穏やかで、それでいて鋭い観察力を持っている。いかなる時も、おそらく無意識的に正義へ歩んでいく、小さな行動に対しての気遣いができる女性それを表したのがフローレンス・ナイチンゲールでした。その英国女性の名前は決して死んでも絶えることはなく、その運命のときまで、英国男性の唇にはまるで 音楽のように聞えるのです。」この第一印象に対する記述を含め、メアリーのナイチンゲールに対する印象は概してポジティブなものであり、またナイチンゲールの方も自分について良い意見を持っていると信じていたという。 一方、ナイチンゲールは、メアリーについて複雑な感情を持っていたことが紹介されている。例えば、ナイチンゲールは、彼女の義兄弟にあてた手紙の中で、メアリーについて「彼女は、『いかがわし』とまでは言わないにせよ、何かしらそれに似ていなくもないようなものを感じた。クリミア戦争のときは、居酒屋のようなお酒を提供する食堂を経営していた。そこで、多くの人を大酒飲みにしていた。」という記述をしている。ナイチンゲールが人種的な観点にどの程度の影響を受けていたかは明らかではないが、少なくとも、ナイチンゲールが当時のディケンズ(ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの小説家である。主に下層階級を主人公とし弱者の視点で社会を諷刺した作品が多い)の小説に描かれているような「不潔でだらしない」看護師のイメージを変えることを願っていたことはよく知られており、メアリーが時には酒類を施設内で提供していたことには強い抵抗があったようである。したがって、ナイチンゲールは、自身の病院で働く看護師たちとメアリーの間の交流を、積極的には取ろうとしていなかったことが紹介されている。 白衣の天使・ナイチンゲールの近代看護教育の確立、社会起業家、統計学者、近代的病院建築設計等の超人的な業績と比べるとメアリーの活動はあくまで個人的である。一体いかなる力が働いてこの二人に運命的な人生のレールが敷かれたのか?ナイチンゲールは「われに仕えよ」という神の声を聴いて看護の道につく。メアリーは幼いころから女医であった母の背中を見てきて医療に携わる自立心と行動力を培うとともに人種差別の壁を感じ看護に身を投げ出す。
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