ムワッヒド朝との対峙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 15:20 UTC 版)
「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の記事における「ムワッヒド朝との対峙」の解説
治世後半はムワッヒド朝に対するレコンキスタに尽力、1172年にムワッヒド朝アミール・ユースフ1世が東のウエテを包囲すると救援のためトレドで軍を招集した。この時は悪天候で戦意喪失したムワッヒド朝が撤退して戦闘は起こらなかったが、あちこちで領土の奪い合いが頻発するようになり、1176年のムワッヒド朝の遠征でキリスト教勢力はトレドを中心とするタホ川流域まで後退した。 1177年1月、アルフォンソ8世は東へ進軍してクエンカを包囲、9月に陥落させた。包囲中の6月にアラゴン・レオンと対イスラム協定を結び、落とした後のクエンカにフエロ(慣習法)を与えて自治都市に指定、サンティアゴ・カラトラバ騎士団にクエンカ近くの領土を与えて更なる拡張を任せた。特にアラゴンとは結び付きを強化、1179年のカソーラ条約(英語版)で征服地の取り決めがなされ、カスティーリャは西のムルシア、アラゴンは東のバレンシアを得ることに合意、将来の国境線を定めた。 カソーラ条約締結後は更に大胆な行動を取るようになり、1182年は祖父に倣い南下してアンダルシアで略奪遠征を敢行、コルドバ・グラナダ・マラガ・アルヘシラスなどを襲撃した。見るべき成果はなかったが、1185年にはカスティーリャから追放されていたカストロ家のペドロ・フェルナンデス・デ・カストロ(英語版)が帰順、彼が差し出したモンタンチェス・トルヒーリョ・モンフラグエをカスティーリャ領に加えたことにより西へ大きく拡張、プラセンシアを建設・植民させ支配地域の浸透を図った。翌1189年に再度アンダルシアへ略奪遠征を行い、カスティーリャの勢威は増した。 だが一方、1188年にフェルナンド2世が亡くなり、後を継いだ息子で従弟のレオン王アルフォンソ9世に臣従を強いたことで強い恨みを買い、アラゴン王アルフォンソ2世にも背かれ、1191年にナバラ王サンチョ6世・ポルトガル王サンシュ1世・アラゴン・レオンが反カスティーリャ同盟を結びカスティーリャは孤立した。アルフォンソ8世はこうした事態から脱却を図り、翌1192年にいがみ合うキリスト教国の仲裁に乗り出したローマ教皇ケレスティヌス3世の提案を受け入れアラゴン・レオンと和睦、同年から1194年にかけて3度目のアンダルシア略奪遠征を実行したが、それはムワッヒド朝の警戒心を引き起こした。 1195年、ムワッヒド朝アミール・ヤアクーブ・マンスール(ユースフ1世の子)がアフリカからイベリア半島に上陸、北上してカスティーリャへ接近していった。アルフォンソ8世は軍を率いてムワッヒド朝と戦ったが、マンスールの前にアラルコスの戦いで大敗してしまった。アラルコスはムワッヒド朝に降伏、アルフォンソ8世と対立していたペドロ・フェルナンデス・デ・カストロもムワッヒド朝へ寝返り、モンタンチェス・トルヒーリョ・プラセンシアがムワッヒド朝に奪われ西部を占拠、カラトラバも奪われる有様だった。カスティーリャの威信は失墜、それに付け込んだレオン・ナバラがムワッヒド朝と同盟を結び反旗を翻し、アルフォンソ8世は再び周囲を敵に回す危機を迎えた。
※この「ムワッヒド朝との対峙」の解説は、「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の解説の一部です。
「ムワッヒド朝との対峙」を含む「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の記事については、「アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)」の概要を参照ください。
- ムワッヒド朝との対峙のページへのリンク