マグリブ・アンダルスに進出
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「ムワッヒド朝」の記事における「マグリブ・アンダルスに進出」の解説
アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした。さらにムラービト朝の衰退後ムスリム(イスラム教徒)の領土へと侵攻していたクリスチャン(キリスト教徒)たちとの戦いに積極的に乗り出し、マラケシュ占領前の1146年にイベリア半島に散らばる小規模なイスラム国家群(タイファ)の招きに応じてジブラルタル海峡を渡り、1147年にセビリアへ入城した。この時はセビリアの反乱やキリスト教諸国のレコンキスタなどでアンダルス支配は進まなかったが、徐々にアンダルスやマグリブ東部にまで進出、ズィール朝やハンマード朝を滅ぼして、ムワッヒド軍は1159年にチュニジア(イフリーキヤ)へ進出、モロッコからアルジェリア、チュニジア南部までマグリブのほとんど全域を支配するに至った。 一方でアンダルスにも目を向け、1150年、サレの対岸にアンダルス征服の前線基地リバートを建設、都市計画へと規模を拡大してセビリアに次ぐ第2の首都となるラバトを作った。そうして準備を整えてからアンダルスへ渡海、1153年にマラガ、翌1154年にグラナダ、1157年にアルメリアを落としていった。しかしムスリムかつタイファの一員でありながらキリスト教勢力に味方するイブン・マルダニーシュ(スペイン語版)(通称ローボ王)に阻まれ、アンダルスはほぼ統一されたが、マルダニーシュの支配地ムルシア・バレンシアは征服出来なかった。アルムーミンは再度アンダルス征服を考えたが1163年に死去、息子アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世がカリフに即位しアンダルス完全統一を希求した。 即位以前にセビリアの統治者を務めたアブー=ヤアクーブ・ユースフ1世はアンダルスに強い関心を持ち、1171年にアンダルスへ渡海して5年間留まり、セビリアを事実上の首都としてモスクや宮殿建設を行い、全領土を統治した。翌1172年にマルダニーシュが死去、息子たちから遺領を引き渡されたことでアンダルス完全統一を果たした。これを契機にユースフ1世は更なる征服を進め、カスティーリャ、ポルトガル、レオンへ遠征したが、ムルシア、アルカンタラ、カセレス平定以外は成果が上がらず、1176年にチュニジアで反乱が起こったためモロッコへ帰国した。それから8年後の1184年にアンダルスへ再渡海したユースフ1世はポルトガルの都市サンタレンを包囲したが、様々な悪条件が重なり包囲は中止および撤退となり、ユースフ1世も戦傷が原因でセビリア帰還途中に死亡、息子のヤアクーブ・マンスールがカリフを継いだ。ユースフ1世の治下では哲学者イブン・トファイルやイブン・ルシュドが活躍し、アンダルスのイスラム文化が頂点を極めた。 第3代君主ヤアクーブ・マンスールの時代にムワッヒド朝は最盛期を迎え、反カスティーリャのレオン王アルフォンソ9世と休戦協定を結ぶ一方で1190年と1191年の2度ポルトガル南部へ侵攻、シルヴェス・パルメラ・アルカセル・ド・サル・アルマダを奪い取った。チュニジアの反乱でアンダルス征服を中断したが1195年にアンダルスへ戻り、7月19日のアラルコスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世(アルフォンソ9世の従兄)を破り、1196年と1197年にも繰り返しアンダルス征服を敢行、トレド・マドリードなどアンダルス諸都市を侵略した。また軍事的成果だけでなく外交でも手腕を発揮したマンスールはレオンやナバラ王サンチョ7世と同盟を結び、キリスト教諸国を分裂させてカスティーリャを窮地に追い込んだ。こうしてキリスト教徒によるレコンキスタを防ぎ、東ではリビア西部まで支配下に加えてムワッヒド朝の最大版図を実現したマンスールは1199年に死去、息子のムハンマド・ナースィルが後を継ぎ第4代君主となった。 だが、ローマ教皇ケレスティヌス3世の和睦工作でキリスト教諸国は停戦、教皇から破門されたアルフォンソ9世はカスティーリャと和睦せざるを得なかった。窮地を脱したアルフォンソ8世は1197年にマンスールと10年の休戦協定を締結、翌1198年にアラゴン王ペドロ2世と協力してナバラへ侵略、1200年にナバラを降伏させ劣勢から立ち直った。マンスールは初め休戦を結ぶ気が無かったが、チュニジアが再び反乱を起こしたため止む無く締結、分裂したキリスト教諸国を一気に蹴散らす好機を逃した。また次第に王朝のイデオロギーであったタウヒード主義は形骸化し、宗教的情熱に支えられたベルベル人の軍隊が弱体化に向かっていった。一方、バレアレス諸島のマヨルカ島にいたムラービト朝の後裔ガーニヤ族がイフリーキヤへ介入したり、ハンマード朝の残党も中央マグリブ奪還を図ったため、マンスールはこれらの反乱に悩まされモロッコとアンダルスを行き来する羽目に陥った。
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